宮本常一の「忘れられた日本人」の読後感と「進歩」とは何か(2015年11月)

円瓢よ

宮本常一の「忘れられた日本人」を読んだぞ。
なんだろう。このゾクゾクする感動。
古典的名著なんだけど、今だからこそ読むべき書だと切に思う。
宮本のオヤジが、日本の秘境を分け入り、そこで古老の話を聞き取る。
この本には、厳選された古老の体験が語られている。
それがまたこゆい話なのだ。

日本の農村社会などは、暗くて面白くないものと思われていたが、
今の社会からみて「何もない社会」は、とても芳醇な社会だったということ。
田植えでは、早乙女らがエロ話に花を咲かせ、
男らは夜這いに精を出す。

それが耕耘機ができると、会話はなくなり、
カギを閉める家がでると、夜這いなんぞ犯罪となる。

はじめに、面白いエピソードが出てくる。
宮本が昔の書類を借りようとすると、村の古老が集まり、賛否を論じる。
その合議をとるために、古老が海を越えてやってくる。
牧歌的とも言えるが、こんな社会では、辺野古が埋め立てられたり、
原発ができたりはしないであろう。

網野氏があとがきで、宮本が本当に伝えたかったとは、ここはではないかと綴っている。
要は、進歩進歩と言うが、それは果たして進歩なのか? 進歩してしまったが故に、
失ったものは大きくなかったか?

これは、そなたが以前言っていた「目覚めよ!大家さん」の著にもつながってくる。

話は変わるが、中日新聞で、最近子供がマンションから身を乗り出して、
落下する事故が増えているという。
原因は、生まれてからマンション暮らしの子供には高所という恐怖心がないからだという。
人を簡単に殺してしまう輩もこの部類に入るのかもしれない。

欠落しているのは恐怖という感情。これは畏怖の念にもつながる。
木登りをしていれば、たまに落ちてけがもする。そこで恐怖を知る。
けんかをすれば、痛みも感じ、人を殺してはいけないことぐらいはわかるだろう。

それらの社会常識を社会が教えてきたのだ。
今それを教えるのは、視聴率とスポンサーしか考えていないテレビというのだから、
網野氏の嘆き以上に、社会は闇を抱えることになっている。

仏教がやらないといけないのは、こんなところからかもな。

最後に、今年は恒例の地獄を行うかどうか、家族のこともあろうから、熟考されたし。
申年なので、猿田彦系を詣らんと思うておるが…。

空石