戒めから一座(2023年6月)

大きなことを口にして始めたコラムだが、しばらく戒をサボっていた。
忙しかったからか、否それより怠惰だったのであろう。

思い直して、6月から六斎日の持戒を再開した。
戒めもあり、一座持つことにした。
平たく言うと、家での座禅である。

一座は約45分とされる。
禅道場では、線香を1本立てて、なくなるぐらいを目安にする。
線香1本の単位を「一炷(いっしゅ)」というらしい。
持ち合わせがないので、スマホのストップウオッチで代用する。

3カ月前に禅寺で座ったので「それほど辛くは…」と考えていたが、
ことのほか足が痛くて、時間が永遠に感じられた。
単なる言い訳だが、場の雰囲気というものがあろう。
お寺のように、そよ風が木々を揺らす音が聞こえるでもなく、部屋の外界は退屈きわまりない。
そんなこんなで、とりあえず30分だけ耐えた。

せっかくだからと、横山紘一先生の「やさしい唯識」というやさしくはない本を手にする。
ただ、難解な「唯識」をできるだけやさしく説明していることだけは付け加えておく。
初心者には良著である。

「唯識」を語ることは本題ではないので、すっ飛ばす。
先生は、「空」を識る(感じる?)ために、座禅に触れている。
(ここは先生独自の見解かもしれないので、唯識と座禅が直接的な関係にあるとはしていないことを断る)

「息になり切る」という表現があった。
意識する「我(識)」は仮定の存在である「仮有(けう)」として、
「我」さえも消し去り、「空」となる。(先生は「空じる」という動詞で現していた)

ものの境すら超越した境地「唯識無境」までは遠いわな。
ただ、座禅だけは続けようと考えた。

それが3度目の座禅では、慣れなのか苦痛は和らいでいた。
30分でもまだいける。足の痛みもそれほどでもない。
40分も平気だった。ただ時間を競っては「執着(しゅうじゃく)」が生じるので、そのへんで切り上げた。
足はやはりしびれているが、なんとも爽快な気分であった。
なんともいえないが、禅や仏教が目指すものには、一歩だけ近づいたと感じた。

次は気分も出すために、線香で一座を持とうか。
ただ線香選びには気を付けないといけない。
ネットを見ていると、1時間以上もつものもあるという。
そりゃ地獄だわ…

まぁ、それぐらい座れるようになれば、別の景色が見えてくるのかもしれない。