宮本常一の「忘れられた日本人」の読後感; 「痛み」を知らぬことは「弱い」(2015年11月)

よう、空石!

「古老」の語に既に畏敬の念を抱かざるを得ない神秘を感じるな。

夜這いひとつとっても、近代的感覚からは不謹慎と見做されようが、芳醇な農村
的な共同体においては極めて意義深い一つの儀礼であったというこ とよな。事
実、プロテスタント的な四角四面な性道徳の前にあった東アジア農耕文化は、そ
の歴史的文脈の中での考察がなされて当然であろうから。

が、そういう視点も、ポストモダンな潮流があふれた70年代になるまでは顧みら
れなかった訳やから、宮本の成果は偉大と言えよう。

感性のスイッチが欠如してしまっている現代の「恐れぬ子供たち」を恐れない社
会は、早晩痛い目を見ると思うな。高層マンションの話は以前に読んだことが
ある。進化心理学的には妥当な考察やと思うわな。実は、「fear」は生物体に
とってとても大事な感覚であり、より素早い survival strategyを取らせること
に繋がる。それが壊れているのは、危機的や。生存できぬ。

その辺りは扁桃体や海馬などの感情を司る脳部位が担当するが、やはりそこが全
体的に鍛えられていないというのは、感情・感性全般の弱みに繋がる気がす
る。文学や人文の意味はちゃんとあるで。そこを国立大学はもっと表現せんか
い!「文系不要」と言われて黙ってたらあかんで、まじ で!BerkeleyもHarvard
も、「文系」めちゃめちゃでかい顔してるで!

「痛み」を知らないというのは、「強い」とは程遠い。それを分からぬ奴らが多
過ぎるな。それはただの「感覚のマヒ」や。強い有情ってのは、 「痛みを知る
からこそ、痛みを避け、痛みを与えず、痛みに寄りそう」ことのできる強者を差
す。菩薩の慈悲になぜ「悲」があるか。強くて余裕があるから慈しむのではな
い。それは上から目線やな。空と縁起を知るからこそ、karna/悲の思いがあふ
れ、慈悲の塊となる。弱き者こそ優しき者。優しき者こそが強き者よ。

この辺りの仏教哲学的な説明は唯識に詳しいので、ぜひ岡野老師の「サングラ
ハ」をちびちび読んで行って頂戴な。まさに、仏教の役割やと思うで、この領
域はな。

年末の件やが、既に我が家では「年末はパパは寺院巡り」で決まっており、我も
彼らもむしろ好都合。俺は行ってもやることが特にない妻の実家におっても
仕方ないし、子供らは祖父母とはおらずいとこと遊びまわっておりパパの出番な
し。実家のメンツとは別の機会があるのでそちらに回しておる。

年末は「イクメンパパの稀な家族からの休み」と認識されておる。故に、空石
家の状況にもよるが、納め地獄ができれば好都合という気配やな。 猿田彦を攻
めるか。なるほど、それもありやな。考えようぞ。