はぁ?神社が墓地経営!?その2; 仏教の「portability」の凄さ(2015年11月)

よう、空石!

全くお主の言う通りやと思うわ。そもそも今まで「死」を扱ってこなかった(し
かも、この超絶fact of lifeの現象を「穢れ」としてな)神道に、死者周りのこ
とはできないと思うで。その証拠に、「墓守」はするけど、「葬式」をする訳
じゃないのでな。場所 は国とのコネがあるからがっちりと取得して、そこに
「object」として管理対象となる墓を移設する、という原理やな。

前回のMTG時にも俺らの話の中で批判的に出た、大家にとっての「コインパーキ
ング」の思想と何ら変わらん。取り急ぎ金になる(こづかいが出て自分に損が
ない…ビジネスとしても利追求思想が中途半端で失敗や)、このままやと宗教や
ばい…という、おろおろした思考回路が丸裸やと思う たわ、記事を読んだとき
に。結局は、土地を切り売りするという発想しかない。よく言えば「土着」、悪
く言えば「portability」が哀れなまでに、ない。

俺が「portability」という視点で仏教を理解し始めたのは、アメリカでの仏教学の
超権威であるLancaster博士の講義が出発やったが、ほんまに仏教は地球でいちば
んportableやと思うわな。portable religionの特徴の一つに「タブーがない」
というのがある。伝統宗教にとっての最大のタブー・穢れは「死」および「死
体」であったという事実を考えると、その死の苦しみを大上段に掲げ、死体を
さくさくと火葬してしまう仏教は、その時点で文化も言語も超越してportableに
ならざるをえない運命を背負っていた。キ〇ガ〇よ、世界宗教史的にみても。

そうならずにインドから出られなかったのが、初期のころは哲学がとても近かっ
たジャイナ教(水たまりを越えられぬタブーを持つ)と、あまりにインド亜大
陸に根っこで絡み合い過ぎたバラモンそしてヒンドゥー教であった。日本では、
神道ということになるな。仏教がインドからしばらく消 えていたのは、恥でも
なんでもない。portable故に世界に拡散したというだけや。

仰る通り、哲学・思想システムとしても極めて洗練度の高い仏教を「衣」にし
て、本地垂迹を掲げたからこそ、それなりに「宗教」としての体を保てたとい
うのが、神道ファンには悪いけど、日本の神道の歴史的現実やと思う。それを国
家神道体制で神宮寺を燃やしたってのがすげえよな。恩をあだで返すとはまさ
にこのこと。よっぽど挙国一致で戦争に勝ちたかったのやろうな。凄まじいわ、廃仏毀釈。

「みんなの寺」はちと怖いな、あの概観。宗派がどうしたというこだわりは無論MONK
にはないが、せめて、「一応こういう伝統系ですよ、でも、それはそれとし
て」という、坊主バー的な安心感を見せないと、これはふらりと立ち寄れないわ
な。よく奈良の本部は8年間もやってきたな。ある意味、古都ゆえの大らかさか。

宮本常一の凄さは強大やな。俺も「忘れられた」はちゃんと読んでない。買った
のに。故に、ぜひお主の熱い読後感想を期待するぜ。それで motivatedされて読
み進めようかと。それにしても、網野善彦と中沢新一がおい・おじの仲というの
を知って仰天したのは岩波「図書」を通してであったな。中沢老師は、オウム以後
はあまりglobalまたはabstractな語りをせずに、今は「四ツ谷を掘り下げる」み
たいな 「earth diver」系になっている。が、それでも常に心が開かれているのは、
彼の血肉を作っている仏教のportabilityさがあるからではと踏む。

「『専業大家』~土地を守り、繁らせる」(仮称)の方も了解した。まぁ、
その書籍への第1プロジェクトが「円瓢家(賃貸ですけど)」やろ うな。集まっ
ている会社などのメンツも狂ってておもろいで。こないだの会議で、建設が始
まったら「定点観測」と称して、徐々に出来上が る家を写真化することになっ
た。おもろいから、長男の夏休みの自由研究みたいにして、「みんなのいえがで
きるまで」と銘打ってJに追跡させたろかと思っておる。

ほんとに、お主の言うように、世界は生きる価値があるのみならず、希望で満ち
てるで。やることいっぱいで、すべて実現できるからな。その明る い世界観と
共に「精進すっか!」と緩くやるのが、仏教のメッセージや。特に弘法大師の密教は
そう。俺が中高時代にアメリカの楽天的な成功哲学と共 に影響を受けたのが真
言密教でよかったと思う所以。ま、それも「用意された」のかも知れんけどな、
なんとか菩薩あたりに、な。