鋭い内田樹ブログとこれまた鋭い茨木のり子の詩(2011年11月)

ブログ拝見した。
それにしても長いブログやな。
こんなPUNKな文章に付き合うのは、
円瓢ぐらいやで(笑)。
でも実におもしろかった。

折しもわれらの先輩が、平松氏を秒殺して当選。
おれも内田先生と同じ神戸市民だから
客観的スタンスでこの選挙を見守っていた。

個人的な感想をいえば、橋下氏の政治手法には全く反対(市民はアホやからやじれば納得してくれるという傲慢さ)だが、関電の送電線事業をぶっつぶすなどの考えには興味を覚える。どうなるかは別として、政治のわかりにくい選択肢を何も考えない市民に与えたことは評価する。

ただ教育については、ホント内田さんに同感やね。
橋下氏にまかせたら、こっちは怖いで。
内田さんは、政治的にはノンポリの平松氏をかついで、
以前から積極的に教育問題について発言してきた。
鷲田先生とも対談しておる。

それにして、内田先生が書いていたように、自分の愚鈍さを隠すだけでなく、他人を妨害してまで自分の地位保全を図るあさましい教育現場にはうんざりやな。

先日、上方文化評論家の福井さんと話していたらおもしろかった。
彼は大学で講師をしているのだが、いまや授業の出席は大講堂では機械で読み取っていくのだという(これも巨大教育産業!のたまものだが)。
それをチューターが読み取っていくのだが、いかんせん教室から教室へとかけもちなので、5分ぐらい遅れた生徒は欠席扱いになる(機械は一度入力を完了すると軌道修正ができないらしい)。そこで生徒が逆ギレ。「なんで来てるのに、欠席なんや!」とチューターが恫喝される事件が、多発しているという。そこに学校側のお達しは、「くれぐれも気をつけましょう」とのたまうだけ。大学が消費者の方を向いた教育産業であることが、よくわかる事例であった。

まあ、思い返せば「昨日何も勉強できんかったわ」といって、徹夜勉強してる北野生にその萌芽は見られよう。教育を与える方も受ける方も、同類ということ。

内田先生についていえば、
神戸で教鞭をとっており、
私が敬愛する甲野善紀先生とよく対談しているので、
よく著作も拝見する。

知っての通り、内田さんは合気道の達人でもあり、
そこでも甲野先生と面白い教育論をぶっている。

簡単にいうと、昨今の日本人の動作というのは、
富国強兵の過程で、西洋から付け焼刃で導入したもので、
昔のようにナンバの動き(武道の動き)が継承されていれば、腰痛(ひねりの動作が過度に使われるから)などの問題が解消されるとする。これはあくまで一例だが、こんな話から、ずっとトークは深遠化していく。
一事が万事、教育の問題というのは、国家が介在した時点で、なんらの意味合いを持って、中立たりえなくなる。
そういう意味では、教育とは昔のように自らが師匠を立てて、ジョブスがいったように、辻辻で次の師匠を見つけていく作業でしか、本来的な目的には至らないのだとは思う。

私は論語の「子曰はく、学んで時にこれを習ふ。亦説ばしからずや。朋あり遠方より来る、亦楽しからずや」との言葉を好む(いつもこの言葉を思うと、おぬしを夢想するわ)。

完璧な教育というものはないと思う。だがそれを懐疑し、学友や師匠を頼り、自ら別の結論を導こうという努力。これが内田先生がいう、「勇気」に近いところかね。

つもる話はいろいろありますわ。

最近はおぬしが教科書の写真によく落書きしていた
茨木のり子の詩にはまっている。
ありゃええで。
ものごとの本質をえぐりよる。

「自分の感受性ぐらい」
ぱさぱさに乾いてゆく心を
ひとのせいにはするな
みずから水やりを怠っておいて

気難しくなってきたのを
友人のせいにはするな
しなやかさを失ったのはどちらなのか

苛立つのを
近親のせいにはするな
なにもかも下手だったのはわたくし

初心消えかかるのを
暮らしのせいにはするな
そもそもが ひよわな志にすぎなかった

駄目なことの一切を
時代のせいにはするな
わずかに光る尊厳の放棄

自分の感受性くらい
自分で守れ
ばかものよ

そうよ、ばかものらよ!
どれもいい。
PUNKよ。
マザー・テレサもいいで。
彼女らの言葉は、
スマホを10年いじったって出てきません!

空石