上海の発展スピードのえげつなさ; Google「全数探索」は慣れ過ぎると人類脳にとり危険(2010年9月)

よう、空石!メール多謝!
円瓢でございます

Facebook友達登録要請しておいたので確認しといて。

上海か、そりゃエキサイティングな感じやな!そうか、まだ万博やっててんなぁ。あまり報道されんから、開幕当初1ヶ月ぐらいで忘れてもうてたわ。それよりも領土問題がお盛んやからな、今の日中関係はよ。

「北京より上海」とは、中国を知る人間はよく言うが、ほんまなのやろうな。勢いは断然、上海の方があると思う。北京はむろん首都やし大学も多いし歴史の重みでセンターではあるが、ビジネスや国際交流は上海が基点になっている気がするな、諸情報を統括すると。が、何よりも、万博に行ってないという点が極めて空石チックで好感が持てるな。

「再開発」ってレベルやないな、空石のメールを読んでいたら。そりゃあ大阪が恥ずかしくなるで。なんの「制限」も設けずにがんがん行ってるから、今後を考えるとえらいことになる気はするが、それも「まぁ失敗から学ぼう!」みたいなのりで行くのかいなあ。すげえ勢いやな。

例えば大阪市内の高度経済成長時代の開発は、岸みたいな知事がいちおうヴィジョンを持っていたこともあり、御堂筋などもあまりにめちゃくちゃな乱開発は行われんかった(それでもバブル期はえぐかったけどな)。そういうちょっと横槍入れるような政治家がおらんかったら、がんがんまだ行きそうやな、上海。奇抜なビル…もっとも、今は建築技術が高度やから、てきとーに作ってもある程度は大丈夫な気はするが、ちょっと怖いな。

「並んでて、ちょっとでも間が開くと、ずんずん押してきよる。」ってのは勢いを象徴してるな。大阪人特有のせっかちってのともまた違うな、読んでいると。伝統的な価値観とかどうなってるのやろうか。完全に死に絶えてるのかのう。それにしても、宇佐美ちゃんが「持ち上げられてどかされる」ってのは笑ったわ。「前進するのか、脱落するのかどちらか選べ!」みたいなのりやな。ゆっくりしてたら死にそうやな。

そうか物価も変わらんか。これは、俺がマレーシアに行ったときも感じたわ。むろん、ASEANも中国も若年人口が豊富で経済成長著しいエリアやが、それでも、「日本の半額か?」ぐらいでちょっと馬鹿にして行ったらとんでもない。あちらも日本とあまり変わらんかったわ。むろん、伝統的な食い物屋とかは目が飛び出るほど安いので、そういう生活もできるが、都会ライフで買おうとすると、ちょっと安いぐらいやった。

寺は侘び寂びなしか!テーマパークってすげえな!韓国ソウルの寺は、近代の廃仏の歴史の影響で山に寺が逃げたということも功を奏し、朝鮮様式で明るい色調の建物は若干ケバイのやが、それはそれでちゃんと古色が伺えてよかった。あのカラフル提灯は気に入った。けど、上海周辺は、どうもそういうの期待したらあかんな。世界遺産にもペンキで「大入り!」とか描いてる感じやな。

新幹線での客と係員のバトルまじで見たかったわ!「殴り合い」てすげえな!大阪の深夜でもめったにないで!で、それを周りは止めないのやろうか?「やったれ!」みたいなのりで見ているのか。勢いがあるのはええが、モラル低下が著しくなるのは勘弁願いたいなぁ、いちおう歴史的な超大国なのやからよ。でも、空石らの「ローカルルールに沿った」行動は、旅の恥は掻き捨てやな。そういう緊急時には手段は選べないし、短期滞在外国人は許される。

確かに、「中国の田舎の清潔感のなさ」はちょっと俺らにはきつい気がするわ。上海のみかよ、長期滞在候補は。けどそのエゲツナイ勢いが肌に合うかどうかやな、後は。ぜひ近々行ってみて俺もこの目で確かめたいわ。また南部の福建省(マレーシアやシンガポールの上流層は祖先がほとんどここや)なんかとは状況がちゃうのやろうな。色々な箇所に、ローカル人に手引きで行ってみたいな。

俺らの仲良しの日本人家族が、旦那が商社勤めでいま北京に住んで5年ぐらいになるけど、やはり色々聞くな。いちばん困ると聞くのが、「礼儀の欠落」という、「おいおい、礼節の国よ…」なエリアで、ゴミポイ捨てや順番抜かしに始まり、外国人への配慮とか、ちょっと余裕がないところが気になる。まぁそこら辺は、「行き着くところまで」行ってから、ゆり戻しみたいになるのかも知れんわ。

そのような中国寺院の中でも、やはりなんかこう「ぐっと」来る寺はあるはずやな。中国地獄(ちょっと怖いが)巡りってのも乙やな。可能性は結構あるかも知れん。

「クラウド化する社会」についての情報も多謝。仰るとおりで、コンピューターに頼る社会は何も便利なだけやない。相当な危険性も孕んでいることを、せめて知識人というか知的生産者らは理解しておくべきやろうな。単純には「記憶をHDDに」という辺りが置換の分かりやすい例やが、そこから推論能力に始まり、(世界の)認知プロセスに及び、(創造的)問題解決まで、至るところで知の劣化を起こす可能性がある。ここに既にピンと来てる奴らはセンスがある。

特に、「脳が鍛えられた後にITをツールとして活用」している層(勝間のおばちゃんとかな)はそれほど被害者にはならん。実はここは重要なポイントで、彼らは「活用」がまだできるのや。故に、高度クラウド社会が導くような負の側面には本でも言及せず、どちらかと言うと、「まだまだ『グーグル化』してないで!もっとしようぜ!」と炊き付ける。が、これはその層には正解。「生ものとして脳が十分に発達」した情報猛者がITを「身体の『延長』」として使う分にはまだええ。

ほんまの問題は、「身体の『一部』」としてITを使ってしまう層、つまり、「認知・社会発達の真っ只中においてITに脳機能の一部を補完されてしまう若年齢層」がやばいのや。認知科学者としての立場から考えると、枚挙に暇がない。またそういう本もぜひ出版したいとは思うが、俺自身が知覚や推論の勉強をもっとしてからやな。それはそうと、「分からんことがあったらGoogleに聞け」ばええというのは、2つの点でやばい。それらは、

1) 「必ず正解は存在する(神が用意してる)」という妄想
2) 「全数探索」という脳みその性質を無視した推論への馴化

やな。1)のような、間違った形でのプラトン的思考は極めてやばい。正解は「知ってる」と「知らない」の違いに二分化されたデジタル思考は、物凄い平べったい思考しか生まんようになるからな。理解していない連中があまりに多いが、【デジタル化】の真骨頂は、『プロセスを単純化/二元化する」ことにあり、「結果(正解など)を単純化する」ことにはない。気づいていない阿呆が多いが。

そのままでは手も付けられないような複雑な問題をモデル化したり、変数化して幅を持たせてシミュレーションすることで、複雑な事象を考えたりするときの武器になるのがデジタル化や。それを使ってまたごちゃごちゃ考えて、結果が出る。で、それをDVDに焼くなりとデジタル化して流通する。が、それは「結果をデジタル化」してるのやない、本来は。DVDにして流通することで、それを次の思考の材料として取り扱いやすく(つまりはプロセスを単純化)してるだけの話や。

卑近な例を出せば、「【結果として】綺麗なCD音源を楽しむ」のは本来的ではない。そこで終われば、それは「結論あるいは正解がデジタル化」なので、60年や70年代のハッカーらが持ったデジタルへの夢がない。UNIX誕生前夜を見ても分かるが、デジタルは「革命」であり「人間変容」であり「脱国境」の思想やったのや。LSDと同じように、「vehicle」やったのや。「大乗」の「乗」や。正解を綺麗に圧縮することやなかった。CDの例で言えば、本来は、「綺麗なCD音楽に感化されたことを【原因として】何かを作り出す」べきなのやな。

「綺麗にまとめられデジタル化された『正解』がどこかのサーバーに置いてある」という妄想は、知をstaticにして考えることを我々から取り去る。dynamicな知は、検索行為の外にあるものや。

2)の「全数探索」は、別の言葉でアルゴリズムにまつわるもの。人間の脳はそうは動かず、「ヒューリスティック」で動く。Wikiって欲しい(思索の素材のためにな)が、「勘を働かせて許容可能な正解っぽい値に迅速に辿り着く」という俺らの脳が持つ癖のことを言う。これのおかげで我らは進化できた。

正解を莫大な量の情報から全部組み合わせてリーチしようとする全数探索は、かつての科学者や哲学者の夢やったが、今ではそれは超電脳の力により可能。が、それらの研究を経て、いま脳や認知、進化を研究する科学者らは、「電脳より遥かに計算速度が劣るが、遥かに柔軟な脳みそだからこそ、俺らは強い」というコンセンサスに到達している。俺の専門(意思決定科学)に触れるエリアなので喋りすぎるからここらで止めるが、そういうことやな。(電脳の思考法である)全数探索に俺らの生身の脳みそが代替されるのは恐怖でしかない。

あまりにGoogleなどで「全数探索」に馴れ過ぎると、脳がそのパターンで動くことになり、「フレーム問題」(これもwikiってくれ)を発生させるような阿呆な脳みそになってしまう。ちょっとここら辺に触れた文章があるので添付する。仏教心理学会での知り合いが、俺にヒントをくれと言って送ってきた駿台予備校のテスト問題。最後の1ページが俺のもの。こういうフレーム問題で躓くような子供はやばいよな。

例を挙げると、がさっと藪で音がしたら、とりあえず(間違ってる可能性もあるが)逃げるという野生のうさぎではなく、その瞬間に音のデシベル、藪の葉っぱの動いた加速度、今日の天気、風速、曜日、時間帯、天気…と情報をきっちり計算(間違わない、でも脳だと時間がかかり過ぎ)している間に、天敵にむしゃむしゃ食べられる、そんな脆弱なウサギや。「洗練だが貧弱」を選ぶか、「粗野だが適応」を選ぶか。むろんこの例では後者や。ちなみに、できれば「洗練だが適応」となるように次世代を教育したいがな。

上記のうさぎのうち、どちらがより多く子孫を残せるか(進化に適応)。仲間とのコミュニケーションでもそう。ヒューリスティックな勘なくして、スムーズには行かない。「間」とか「空気」とか、変数化の困難なデータを無視してたら、国際交流も不可能。どういう人間を俺らは望むべきか。そして育てるべきか。

セガレは3歳にしてYouTubeを操り、ウルトラマンなどを見て楽しんでいるが、あくまでも「次への素材」のためにITを利用できるようにパパは注意しておる。今後もがんがん野に放ち、異文化と交流させながら、ネットには「身体の『延長』」として親しんでもらうようにすることは大事やろうな。「身体の『一部』」なんてぞっとせんわ。

その「一部」な状態をもろに可能とする未来世界を、大阪の誇る国際的漫画家である士郎正宗は「攻殻機動隊」(Ghost in the Shell)で「擬態」ならぬ「義体」として描いたが、中々読み応えがあるので未読なら是非。もっとも、あの中でも主人公たちは、『一部』であるグロテスクなITをやはり自らの『延長』として駆使し、むしろ自身がより巨大なサイバー空間の『一部』になってしまった混乱する犯罪者たちを追い詰めるという物語になっているのだが。

おぉ、書きすぎたな。10KBか。この辺りは認知科学者でもある俺の専門が及ぶ場所でもあるから、また対面時に対話しようや。空石の思考を深化させるよすがは多く提供できるかも知れん。

日記を書くことはええことやな。記憶力の強化もむろんやが、数年書いていると、いかに我らの記憶がでたらめかを確認するツールにもなる。俺らの自我を形成する最も巨大な認知装置であるはずの「記憶」がいかに簡単に(自身の中で)改ざんされているかを知るとき、仏教の「無我」がまた一歩近づく体験ができる。

漢字はほんまに忘れてるな。60年代から認知科学は「recognition(想起)」と「remembering(記憶)」を分けているが、前者ばかりが発達している俺らの今は危ない。脳みそを浅くしか使ってないことにもなるからな。

「デジタル化するのは次なる材料」。肝に銘じようぜ。では!