コロナ禍の寺巡り~鳥取編(2021年5月)

なんだかんだで山陰3日目。
いよいよ鳥取県である。
水木しげるを育てた境港へと北上する。
米子から北西に真っ直ぐの道路が続く。
運転に退屈していると、米子鬼太郎空港が現れる。
訪れなかったが、妖怪のステンドグラスなど粋な空港になっているという。
これを迂回して境港市にある正福寺に向かう。
がらんとした境内に、ベンガラの屋根。
田舎のお寺といった風情だが、聖地でもある。
正門前で水木氏の傘寿祝い像が迎えてくれる。

開けっ放しだったので、勝手にお邪魔する。
本堂には例のものが掛かっていた。

「地獄極楽図」

島根編の一畑薬師で紹介したのんのんばあが、水木しげるに見せた代物である。
地獄こそ描いてあるが、さほど怖いモノではない。
水木少年は「この絵によって別の世界の存在というものを知った」と著作「のんのんばあとオレ」で記している。
それだけに妖怪の原点といえる聖地なのである。

この本は水木氏の少年時代を描いているが、妖怪の話だけでなく、ガキ大将時代の話も面白い。
小学生の時分に新聞の題字集めというのがはやったとある。
「大阪朝日新聞」とか「京都日出新聞」のほかに、
当時の植民地で発行されていた「台北日報」や「樺太日日新聞」まであったという。
それを菓子屋の荷物の包み紙から拝借したり、それでも足りずまちのゴミ捨て場から集めたという。
思い返せば、小生も小学生のとき、牛乳キャップのコレクションがはやり、
友人とチャリンコで遠くの駅に出張り、売店のゴミ箱をあさった。
だからその心情は少しわかる。

暑さもあるのであろうが、町中なのに人に会わない。
そろそろ腹も減ってきた。

少し先にある「水木ロード」とやらに行けば店もあろう。
通りに入って、たまげた。
人、人、人である。
どっからそんなにわいてきたのか。
久しぶりに人混みというものに出くわした。
家族連れがソフトクリームなどを手に、闊歩しておる。
通りの脇には妖怪、妖怪、妖怪のブロンズ像。
お土産売り場には目玉のおやじなどの妖怪グッズ。
子どもがいれば、連れて来たいと思う。
ということは…。

一番の観光拠点、水木しげる記念館も人だかり。
それも整理券を待つ列というではないか。
鬼太郎の威力たるやすさまじ。
それをまじめに追求したまちもえらいわ。

ネットをいじっていると、世界妖怪協会なるものがヒットした。
水木氏が会長となっている。
1996年から世界妖怪会議なるものを始めた。
第1回の開催地は当然ここ境港。
それがまだ続いていて、今年はコロナ禍にもかかわらず、所沢で8月に行われたとある。

動画があったのでのぞいてみた。
水木氏は他界されているので、荒俣宏氏が似合っているのかわからない妖怪の格好で
「妖怪は縄文時代からいるんですよ」と吠えている。
子泣き爺が徳島出身であることも初めて知った。
オンラインでは鬼太郎に分した鳥取の平井県知事も出演。
振り切ったパフォーマンスをされていた。

来年3月には水木しげる先生生誕100年祭を予定していると猛烈PR。
9月からは「蟹取県(かにとりけん)」に名前を変えるそうである。
そこまでしていいのか?
「捨て身の観光PRやな」と感心した。

だが、待てよ…。
2004年は…滋賀県東近江市も第9回世界妖怪会議をしとるやんけ!
あれだ…。
「八日市は妖怪ち」というおやじギャグ。
悪いことをすると、ガオという鬼が来るとかいう伝承があったという。
でも水木さんに名物の大凧をデザインしてもらったり、結構本気でやっとるやん。
ただ…。
境港と違い、今はそのかけらもないのが悲しい。
来年は聖徳太子薨去1400年記念事業という。
う~ん、変わり身が早すぎる。

鳥取に入って、GW感が出てきた。
東にある鳥取市に向かう海沿いの道は大渋滞。
眠そうに風力発電のプロペラが回っている。
途中にあったコナン君の青山剛昌ふるさと館も人の群れ。

私もそうだが、コロナでも「車なら大丈夫」という考えなのだろう。
勇んで人混みに飛び込む愚行は避けよう。

旅も終盤に近づいてきた。
鳥取市は何度か訪れている。
しかしいつも冬で、雪のイメージしかない。
今回は気持ちいいぐらい晴れている。
なんの考えもなく、大雲院という寺院に立ち寄った。
外観はこじんまりしていた。

ご老人が几帳面に庭の掃除をしている。
あとでわかったが、彼が住職であった。

本堂に入ると、驚いた。
中央に阿弥陀三尊、西国三十三カ所を表す33体の観音さんが周囲をぐるりと固める。
しかも繊細な仕事である。
これは、ただの田舎寺ではないぞよ。
受付のご婦人に由来をうかがった。
親切な方で、こんなコロナ禍にかかわらずよそ者に丁寧な説明をしてくださった。

でも…ややこしい寺なのである。
徳川将軍の位牌を安置する由緒正しい寺院である。
ここから少し、我慢して聞いてほしい。

まず鳥取藩は池田家が藩主であった。
池田家は外様にもかかわらず、親藩と変わらぬ待遇を受けている。
なんせ石高は32万石もある。
幕末で270ぐらいあった藩の中で13番目という。
井伊家の彦根藩でも35万石である。
初代の鳥取藩主の池田光仲は、徳川家康のひ孫にあたり、その血筋が効いている。
複雑なのだが、岡山藩主だった光仲の父が死んだとき、2歳だったため、すぐには藩主になれなかった。
しかも、岡山は外様大名に目を配る要衝だった。
「そんな外様を抑える大事な藩を子どもに任せられない」と鳥取に配置換えされた。
家臣が鳥取藩を収め、光仲が江戸から鳥取に入ったのは18になったときであった。
ここから寺の話が絡まってくる。

光仲は、統治の際に老臣らになめられないために家康の威光を利用した。
家康を神とした東照宮を勧請したのである。
これを裏で操ったのが、天台宗の怪僧天海であった。
彼の高弟が東照宮の別当寺の住職として送り込まれた。
(当時の寺の名前は淳光院だったが、のちに大雲院に)
天海は徳川家康を「大権現」として奉ることで、
臨済宗の崇伝を駆逐しようとした。

その策略は功を奏し、光仲は家康のひ孫である自身の威光も高めることができた。
ただ世が明治になると、徳川では通らない。
東照宮は明治政府の意向で樗谿(おうちだに)神社と改められた。
大雲院も縮小され、現在地に移転。
その場所には、霊光院という寺があった。
だが、追い出された大雲院の方が、格上だったので霊光院を吸収合併した。
そのためこのお寺には、秀作の仏が多数安置されているのだという。
本堂の奥には、もとの大雲院唯一のなごりである元三大師堂がある。
(受付でたずねないと、通してくれないので、一声を)
ここには今も東照宮のご神体も守られているという。

こんなややこしい説明は一度聞いてもわからない。
寺にあった解説書と図書館で調べてようやく理解した。
時代に翻弄された流転の寺である。

次の目的地が定まった。
樗谿神社こと、現在の東照宮である。
歩くと20分ばかりの閑静な公園の奥にある。
東照宮だけあって、神聖な場所だったのであろう。
今は緑の多いいこいの場所となっている。
清浄な気が流れているように感じた。

この東照宮は先に樗谿神社だと書いた。
それが、ようやく2011年に鳥取東照宮(もとは因幡東照宮)になった。
家康の名誉復権というところか。
めでたし、めでたし。

急ぐ旅でもなかったので、近くの鳥取市歴史博物館に入った。
寺とは関係ないのだが、面白かったので記しておく。
先に説明すると、鳥取県の令和3年7月の人口は約55万人。
全都道府県で最下位である。

前述のように、昔は雄藩で人もそれなりにはいた。
だが、明治維新でいっぺんに武士階級は困窮した。
驚くべきことに、1876年から81年まで鳥取県は島根県に編入され、消滅した。
武士のまちだったので、商業の中心は米子。
一気に没落地域と化したのである。

ちなみに、1998年には鳥取県が再設置された1881年9月12日を記念し、
県議会は9月12日を「とっとり県民の日」としている。
先に戻り、明治初期の困窮解決策として、ときの知事は北海道への移民政策を進めた。
1877年ごろから大正時代末期まで約2万7000もの鳥取県人が未開の地を目指した。
そのなごりに、釧路には鳥取町という自治体が1949年まであった。
1891年に釧路市には鳥取神社がつくられた。
ご神体は出雲大社から勧請したというのが興味深い。
ついでにいうと、徳島や香川県の移民も多く、こちらは大師堂を建てた。

余談が余談を呼ぶ展開をお許しあれ。

北海道開拓の歴史は実に面白い。
明治政府発足当時、北海道はロシアの南下政策阻止のため、開発の重要拠点だった。
だがいかんせん、当地には労力がない。
そこで様々な人がかり出された。
寺院も例外ではない。
東本願寺は徳川家に近かったということで、政府から干される危機にあった。
「こりゃやばい」と願い出たのが、北海道開拓である。
廃仏毀釈で仏教への逆風もあったという。

1870年からわずか1年で札幌から現在の伊達市に通じる約100kmの道路を開いた。
僧侶約200人といわれるが、それ以上の多数のアイヌも手伝わされたのであろう。
艱難辛苦の末できた道路は「本願寺街道」と呼ばれ、今も残る。

北の大地の開墾は、東北をはじめとする移住者にゆだねられるが、忘れてはならないのは囚人である。
明治新政府は、北海道に囚人を集める集治監といわれる刑務所を作り、
彼らを無償の労働力として利用した。
札幌から東北に約50kmいったところに樺戸集治監があった。
初代の監獄長月形潔の名を取った月形町にある。
1919年に廃監になり、役場などに使用されたあと、今は博物館となっている。
彼らは重犯罪者として、苦役で倒れても顧みられなかった。
殺人犯など重犯罪人だけでなく、反政府の思想犯も多かったという。
囚人は目立つ赤い服を着さされ、「赤い人」と呼ばれていた。

ここで島根県の石見銀山のくだりで触れた藤田伝三郎にご登場願おう。
彼は明治の豪商なのだが、政府から偽札作りの嫌疑をかけられている。
長州閥の政商として活躍したが、それをねたまれ、はめられたともいわれるが、真相は闇の中。
藤田は釈放されたが、実行犯として熊坂長庵が真犯人として逮捕された。
もとは神奈川で小学校校長をつとめていた。
1882年にこの樺戸集治監に送られた。
4年後に獄中死したが、えん罪の可能性もあるという。

伝三郎は偽札事件に関しては、なにも語らなかったとされる。
松本清張が「不運な名前」という短編で題材にしている。
熊坂は囚人にもかかわらず、絵をたしなむことを監獄長から許されたという。
絵は今も集治監近くの北漸寺に残るという。
これも囚人の労働でつくられた。
松本の小説で、その絵は上手とはされていない。

北海道とアイヌをテーマにした冒険漫画「ゴールデンカムイ」にも彼をモデルにした熊岸長庵が登場する。
ここでも熊坂の絵の下手さにも触れられている。
このシーンにはうなるようなひねりがある。
作者の野田サトル、やるじゃん!
そこは読んでのお楽しみ。

少し本題からそれたようである。
一応、余談にもお寺のこともちりばめたのでご勘弁を。
断っておくが、鳥取市博物館は北海道移民の展示のみを行っているわけではない。
むしろ気付かないぐらいの1コーナーであった。

そろそろ、帰路のことを考えねばならぬ。
南下して、兵庫県に向かう。
ローカル鉄道の若桜鉄道に触れると、それこそ寺巡りとは逸脱するぐらい書いちゃうので割愛。
地域おこしの一環でSLをピンクにしたり、バイクの隼とコラボしたイベントを隼駅でやったりと、
かっけえローカル鉄道であることだけ触れておく。

終着駅である若桜駅から、約10分で不動院岩屋堂に着く。
この旅のラストテンプルである。

だが、寺なのに入れない。
そう、投入堂だから。
鳥取の三徳山、大分の龍岩寺奥院礼堂とともに日本三大投入堂である。
ここのは安心感がある。
岩窟にあるのだが、そこに至る石段もしっかりしてそうだし、鰐淵寺ほどの秘境感はない。
ただいつまでも眺めていられるくらい荘厳な光景だ。

ちらほらと観光客もいる。
ひょっとしたら、地元の散歩の方かもしれないが。
石段の前には柵が設けてあるが、年に何度かは建物を一般公開しているのだという。
護摩法要が行われるとパンフにある。
鳥取は本家の三徳山といい、鰐淵寺といい、投入堂がお好きである。
お堂からの光景を目にすれば、その気持ちがわかるのかもしれない。

コロナ禍の寺巡りはこれにて終演である。
今回は島根と鳥取を訪れた。
人口で言えば、島根は46番目、鳥取は47番目で全国トップの過疎地域である。
ただ最近は見方が変化しているという。

UターンやIターン、これらは2県がどこよりも早く行ってきた施策。
地域おこし協力隊や都会での移住相談機関の設置など、過疎化対策では先進県なのである。
バブルやインバウンドやと騒いでいる合間に、大都市圏以外はすべて人口減。
あわてて地方がやっている過疎化対策は、何十年前から2県ではやっていたのであろう。

ある著作で読んだが、島根県は「いきなり移住・定住ではなく、関係人口の増加を目指す」のがスタンスという。
取り組みが遅かった自治体は「いきなり」からことを進める。
いきなり「定住するか、覚悟はあるか」では移住希望者にとりハードルが高すぎる。
お互いのディスコミニケーションで、都会と田舎の相互不信。
そんな自治体が多いのは、移住失敗談がネットに多く上がっていることからわかる。

鳥取藩はかつての雄藩であった。
鳥取砂丘など自然だけでなく、寺も文化で魅力的な場所が多い。
コロナ禍で都会生活の不自由さが叫ばれて久しい。
もとから密が少ない田舎はある意味、それほど困っちゃいないともいえる。
通りすがりの旅人には、鳥取と島根の心のひだまでは到達できなかった。
だが、島根は日本すべての神様を集める出雲大社を有する。
鳥取は妖怪パワーを手当たり次第に発露する妖気が息づいている。
この「しましま連合」が、再びメインストリームに踊り出るとわれは信じる!

ブログを読んで、1人でも「しましま連合」に足を向けてくれる人が現れるのを祈願する。