世界遺産の前から世界が愛でた風景(2013年6月・静岡市清水区・清見寺)

静岡県は清水というところです。
この地は、有名な漫画家を生み出しています。
さくらももこさん。「ちびまる子ちゃん」は、作者のこの地での思い出がベースになっているそうです。
 
国民的漫画ですが、エンディングでも国民的ソウルミュージシャンが歌ってましたね。
忌野清志郎!
タイトルは彼らしい「宇宙大シャッフル」でした。
子ども向け漫画にかかわらず、「何やってるんだよ、人類!」とカツを入れてました。ストレートすぎる歌詞に、独特のこぶし。
生でライブを聞くことはできなかったのが、残念。
何で、そんなに早く逝くんだよ…。
 
「早く来てくれ、未来!」
 

清志郎がシャウトする前に、江戸幕府はある使節の来日を首を長くして待っていました。彼らが逗留したのが、清見寺です。
静岡市から海沿いに、東に行くと、JR興津から徒歩10分で線路越しに小さな山門が見えてくる。
 
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お寺のパンフによると、奈良時代に創建されたが、1262年に臨済宗のお寺として再興されたとある。静岡のお茶の祖・円爾が諸堂の落成式を挙げたとも伝える。
 
見所が多い寺なのだ。
織田信長に討たれた今川義元の軍師として活躍した太原雪斎も住持した。
そして、幼き日の徳川家康が人質として、ここにいて、雪斎から教えを授かったともいう。
雪斎については、この漫画は必読じゃ。
 
『センゴク外伝 桶狭間戦記』」宮下英樹
 
今まで今川義元といえば、公家かぶれで、おはぐろでホホホの愚鈍の象徴とされていた。だが、これを読めば、その評価も一変する。彼がいかに英傑で、また雪斎との強固な師弟関係が、いかに信長を追い詰めたかがよくわかる。専門家の意見も取り入れながら、なぜ桶狭間の戦いが起こったかという仮説もなかなか面白い。信長のおやじも詳しく描いていたり、下手な歴史書より読み応えがあった。
 
入り口すぐから二階に上がる。最大の見所の大方丈である。
 
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広い畳の間に、すがすがしい風が吹き抜けていく。
ここから古人は、三保の松原を堪能した。
 
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しかし、ときは流れた。眼前には工場ができて、白い建物の右端から少しのぞくのが、古歌に名高い三保の松原である。
それでも波の音を聞きながら、往時の光景を夢想はできよう。
 
さて、わたしがこのお寺に訪れたのは、貴人がここに泊まったからだ。当時は珍しい異国からの使者である。
江戸時代に、朝鮮通信使という外国使節団が、漢城(ソウル)から、対馬を経て、瀬戸内海を通り、江戸の将軍に挨拶にきた。
正確に言えば、彼らは最初、回答兼刷還使と呼ばれた。その役割は、豊臣秀吉に連れ去られた捕虜の返還だった。
江戸幕府としては、自らの権威を高めるため、異国の使者を迎えたい。そこで、秀吉により、ズタズタにされた朝鮮との関係を修復すべく、対馬を交渉役にした。
 
ネゴシエーターの対馬は必死である。将軍の上から目線の国書の改ざんをしてまで、朝鮮サイドと交渉した。何せ、秀吉の朝鮮出兵以来、貿易で潤っていた対馬はあがったり。貿易再開とならなければ、貧するばかり。
江戸幕府としても、異国の貴人を服属させることで、その権力をほかの大名に誇示できる。朝鮮通信使を受け入れる費用は、幕府の1年分の予算に相当したというから、その真剣度がうかがえる。
朝鮮側はどうか。本音は、日本と2度と関わりはもちたくないが、国土を蹂躙された二の舞はご免。日本が平和の国に変わったということを見定めねばならない。しかも、連れ去られた捕虜もいる。しぶしぶ交渉に応じたというところか。
 
だが、いろいろな思惑の上に来日した朝鮮通信使は、文化の上では、大きな足跡を残した。
使節といえども、向こうは本気の文人をよこしてきた。つまり、こっちは武力ではやられたが、頭では負けてないぞと。そこで日本も、雨森芳州など当時の最高の頭脳で応戦する。
喧々がくがくの議論が、道中日夜問わず、行われたとの記録がある。中には、ほほえましい話もあった。
 
1763年に11次の通信使として来日した金仁謙は『日東壮遊歌』」という旅行記を残している。
そこにある伝説の人間について触れている。
 
『朝鮮通信使紀行』という杉洋子さんの著作から引用させていただく。
 
「徐市(徐福)が最初に、この地に都を開いたと記した漆書も伝えられ、徐福祠もあるというが、場所がわからず、行けぬとは惜しいことである」
 
金仁謙は、「そこに参りたい」と日本側の使者に伝えたが、「遠いので行けない」と返され、落胆したという。
 
徐福とは、秦の始皇帝の時代に、不老不死の薬を求めて来日したとされるお方。今でも熊野に上陸したとの伝説がある。
なぜ、朝鮮からの高官が、徐福のことを慕うのか。それは、始皇帝の暴挙による。彼は焚書坑儒という、書物を焼き、学者を穴に埋める思想弾圧を行った。そのとき、儒教の大事な書物も同じ運命をたどったが、日本に渡った徐福が、儒教の大事な教典『六経』を持っていたと信じられていたのだ。
 
このネタは、朝鮮通信使が来るたびに話題になったらしい。何とも優雅な交流であったのか。
 
そして、朝鮮通信使よりは、規模は小さいが、琉球からも使者が来た。こちらは、日本が服属を強いる形をとった。そのため、渡航費用なども琉球持ちである。ただ、薩摩藩を通じて、武力で屈服さされた小国は、生き残るためにそうする他なかった。
 
その足跡がこのお寺の裏山に残されている。
五百羅漢の石像群を抜けると、檀家のお墓が並ぶ。緑がまぶしい山道を登ると、一番高いところのお墓を老人が掃除していた。
 
「うちのをきれいいにしたついでだから」
 
老人は、お墓の周りに伸びた雑草を引っこ抜いていた。
墓で眠るのは、琉球の具志頭王子である。
薩摩の琉球侵攻後、和議の使者として兄とともに、1610年に日本に連行された王子は、駿府で徳川家康と謁見したが、江戸に向かう途上で亡くなった。それを悼んで、このお寺にお墓が作られた
1850年まで続けられた琉球使節は、江戸に向かうときは必ず、ここで手を合わせるのだという。王子は不幸にも、母国の土を再び踏めなかったが、その瞳には潮風とともに、穏やかな風景が映っている。
 
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そういえば、2013年6月22日に、富士山の一部として世界文化遺産に三保の松原が登録された。
お寺からは、先っぽだけとはいえ、世界遺産が眺められるようになった。
 
本堂のある間には、ガラスケースに入れられた三味線がある。
ピカピカのすばらしい逸品である。
 
「使節が来たときにお寺がもらったんですか?」
 
「いや、沖縄の方が、琉球使節のことを知り、もとあったボロボロの三味線をキレイにしていただいたんですよ」
 
また、朝鮮通信使の子孫のかたもここを訪れ、祖先が残した扁額を目に焼き付けたのだという。
 
鐘楼には「瓊瑤世界」と立派な文字が掲げられている。
珠のようにうつくしい世界という意味だそうだ。
 
不幸ないがみ合いから始まった交流が、今も確かな形をもって、新たな歴史を伝えている。
 
清見寺(せいけんじ)
 静岡市清水区興津清見寺町418-1
 JR興津駅から西に徒歩約10分

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