遍路の邦二導かれ~前章~

諸事情で、此度の地獄巡りは1カ月前倒しさせていただく。
話し始めると、地球を1周してしまうので割愛。
(どこかで同行の円飄が触れるであろう)
円飄が、香川県多度津町の海岸寺に1年近く逗留しており、空石がそこを訪ねたというところがスタートである。

前日に空石は1人で香川県の高松を訪ねた。
何度も書いているが、寺というものは本当にありがたい。
なにせどこに行ってもあるのだから。
普段は気にも留めないであろうが、町など歩いていると「ここにも」「そそこにも」寺はある。
山登りに行かれても、獣しか通らない古道に寺を発見するかもしれない。
よく寺の紹介で「全国でコンビニの数より多い」と紹介されるが、さらにいえば苦悩する衆生の近くにある。
利益度外視の立地はとうていコンビニには真似できまい。
これも書いたかしら。

高松駅前で腹ごしらえ。
うどんが常道なのだが、好物の天下一品のラーメンを見て、即入してしまう。
そこからJR高徳線に揺られて、古高松南駅で降車する。
なぜここで降りるのか? お墓参りのため。
駅からすぐに金網が張り巡らされた池がある。
向こうに神櫛王(かみくしおう)という皇族のお墓がある。
御陵なので、宮内庁の役人が定期的に足を運んで祀り、浄める。
だから、背筋が伸びるような静謐な感じがある。

深々と頭を下げる。
神櫛王は第12代景行天皇の皇子と伝わる。
知られていないが、讃岐国造の祖とされる。
明治の世に高松藩知事が讃岐の祖として御陵を再建したという。
この続きは、あとで回収しよう。

北に歩いて行くと、左手に屋島の山並みがみえる。
学生の時に貧乏旅で見たジブラルタル海峡のターリクの山を想起させた。
なにが言いたいのかというと、山容がとがっていて異国風でどこかかっちょいいのである。

ずんずん進むと、やけに石屋が多い。
地名は牟礼という。
「むれ」と読み、古代朝鮮語で「山」を表すという。
ははぁん、これが庵治石の産地とやらか。
青みがかった花崗岩は、墓石などに使われる高級材という。
広島の原爆慰霊碑もこの石で作られたとか。
さて、お遍路の島四国にふさわしい寺を訪ねた。
洲崎寺である。

目立ったお寺ではないが、なにせこの寺には真念さんの墓がある。
どういうお方かというと、江戸時代の僧で、歩き遍路を20回以上された。
その経験を生かそうと、出版社の助けも得て1687年にお遍路の宿や路を詳しく紹介するガイドブックを刊行した。
それまでもお遍路は行われていたが、大衆に広まったのは、彼の「四国徧禮道指南」のおかげである。
とはいえ、当初の彼の墓は共同墓地にあったらしく、1980年に洲崎寺に移されたという。
あまり丁重に扱われていなかったのかもしれない。その理由はわからない。
寺も真念よりは、源平推しのようでもある。
境内に広がる石庭は「源平の庭」と名付けられている。
源義経の家臣佐藤継信の菩提寺ゆえ、作られたのであろう。
継信は義経四天王の1人で、屋島の合戦では平家の武将が主君に放った矢を体で受け、絶命した。
その忠臣ぶりと活躍を表した壁画もある。


あまり知らないのだが、江戸時代は歌舞伎や人形浄瑠璃で人気の演目だったという。
屋島の地では、さすがに継信に軍配か。
遍路の父はひっそりと祀られている。
ただ寺庭さんに聞くと、3月に両人の法要が行われるという。
85番札所の八栗寺も徒歩30分ほど。
お遍路さんには、是非立ち寄って手を合わせていただきたく思う。

寺巡りの楽しみの一つは、ローカル鉄道に乗れることである。
高松駅への帰りは、八栗から琴電でガタゴトと揺られた。

高松の中心地瓦町で下車。
商店街を抜けて、弘憲寺に向かう。
前身の法勲寺は奈良時代の開基という。後に讃岐を治めた生駒親正の息子が再興。
父親正の戒名から弘憲寺とした。だから墓所もある。
ここで再び神櫛王である。
讃岐の王は、またの名を讃王または讃留霊王(さるれお)とも呼ぶ。
このお寺には、讃留霊王の掛け軸が存在している。
常時公開しているわけではないが、正月は7日までお願いすれば拝めるという。
正月にはちと早い。
無理は言わない主義。タイミングというものがある。
さて、本論に移るとする。
この讃留霊王であるが、瀬戸内海の悪魚を退治したとの史書もある。
寺の方にうかがうと、高松から西に行った丸亀近くの綾町にも墓があるという。
悪魚を退治した讃留霊王だが、実は悪魚に食われた。
腹の中で火を放ち、それで魚が息絶えたとか。
その功で景行天皇から讃岐を賜った。
綾町から少し西に行くと、四国で最も有名な神社、金毘羅さんがある。
海上交通の守り神とされ、大物主神を御祭神とする。
だが、それも明治の神道にのっとったもので、以前は神仏習合した金毘羅大権現を祀っていたとされる。
この神様はインド由来の「クンピーラ」ともされている。
ここからはネットの民の想像力もお借りする。
この鰐の神様が、実は讃王に退治され、改心した悪魚というのだ。
もしかしたら、退治されるも相討ちで、讃王とともに手厚く葬られて、海の守護神にしたのかもしれない。
恐怖の対象は、「とりあえず神様にしちゃえ」という愛すべきアミニズムの名残もあろう。
あくまで空想の話である。
いつか金比羅参りして、その真偽をインスパイアされたい。

この寺には、高さ16mの巨大な平和の塔が立つ。
寺のHPには石造五重塔としては日本最大という。
あの庵治石で作られたという。
終戦間もない1950年に戦没者の慰霊のため、作られた。
被爆地の広島に寄贈される話もあったが、運送する費用が足りなかったのか、
実現はしなかった。

四国の寺といえば、88の札所となるが、それ以外にも味のあるお寺は星の数ほど存在するのである。