「マンダラ展」国立民族学博物館(吹田市)(2003年6月)

妻から「平日昼間から全く…でも、行ってリフレッシュしてきたらいいよ」と有難く許可されたので、昨日はまさに平日昼間から、正々堂々と、ええ年した若者が、万博にある国立民族学博物館(例の梅棹のオヤジが初代館長のあれね)で行なわれていた特別展示の「マンダラ展」を体験して来ました。1人ではなくて、例の仏教オタクの高校時代からの親友・空石と2人で。ずばり、こいつもホンモノでしょう。

奴は、「営業ですわ」とか何とか方便を使うて、駆けつけました。

あんなにたくさんのチベット密教の仏像やマンダラやタンカ(布絵)を一同に見たのは今回初めてで、色々な意味で刺激的でしたなぁ。2時間半たっぷりと滞在してしまいました。って言うか、展示場が5時で閉まった。

どこがどう「刺激的だったか」について書き始めると徹夜してしまうので、そこは割愛。だが、1つ疑問点として「『秘密仏』と『護法尊』とは別格の主体と考えてよいのか?」という疑問が沸き起こりました。俺は今まで「護法尊(「神」、とみんぱくでは書いてたけど、あれは混乱を招くのちゃうかなぁ)」とは、「仏の位におるが菩薩のように積極的に衆生の現世の苦しみを救う、ただしごっつう怖くなって」という存在であると認識していたす。が、今回、どうやら2者は少し違うのか、と思い始めた…。

また図書館にでも関連書籍を入れさせて調べますかのう。

さて、仏教研究でも著名でダライラマ14世お気に入りの我が大学CALを擁するBerkeley市には、何とチベット寺院が4つ(つまり、全主要宗派が勢ぞろい)もあるのですが、在学中、チベットから亡命してきた坊さんらによる「砂マンダラ」の儀式なんかにも機会があれば参加してました。「あぁ、この凄みが仏教やんけ…!」と感じ入る彼らの立ち振る舞いを見てると、まじで、なんか「(仏教徒として)試されている」ような気になったもの。そのナツカシさを思い出しましたぜ、昨日は。ありがたやありがたや。

まだまだ修行がタリンわぁと大いに2人で反省しながらも今回の感動にめぐり合った縁に大声で感謝しながら(←変な社会人や)、私は前々から欲しかった法具である「金剛鈴」ちゅうものを、8500円と高価なためかなり迷いながらも入手しました。

という訳で、いい音のする(倍音が出るため心身のリラックスにもとてもよいそうですね)、密教哲理的にも金剛杵の「方便(慈悲)」に対して双璧の「智慧(般若)」をあらわす鈴を2つもち、昨晩ネットで調べた使用法を頼りに、今日から毎朝の勤行に力が入りました。取り敢えずは「場の清浄」ちゅう儀式をして、瞑想時に使用しております。

「昨日はチベット密教にがつんとやられた」円瓢でした。

参考: 「がつんとやられた円瓢」の図

            ノ∩
           ⊂ >  ヽ     ←円瓢
            /( 。A。 )っ
            U ∨ ∨
         ・@;∴‥
   ∧_∧ ∩  :: :.
  ( `□´)/  :: ::
  (つ   /  :: :’    ←チベット密教
  人⌒l ノ  :: ::
  し(_)

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