岡本太郎の話を受けて(2002年10月)

: >読んでしまったのよ。太郎を。
: >岡本太郎じゃ。

うむ。ええもん読んだのう。キグルイ太郎やな。俺は未だに万博公園の太陽の塔の凶暴性の溢れた奇天烈な芸術を見るとき、興奮を覚えるで。そして、側におるやつが太郎やその父一平、そして、

「長生きする秘訣は?」と聞かれて、
「大乗仏教を本気で信奉することです!」とまじで答えていた、

恐るべき母、岡本かの子のことを、簡単に説明してやることにしている。瀬戸内寂ちょーに腰を抜かさせた、あの奇天烈ばっさまのことを。

: >おっさん、京都で禅坊主のために講演したそうじゃ。
: >(えげつない集会やろ?)

えげつないとしかいいようがないな。でも、太郎やったら講演できると信じるわ。俺なんて、危機感をもち始めたお医者さんあたりが関の山やがな。

「今」はな。ふふふ。

: >「出会うのは己なのです・・・」と続く。
: >つまり、仏は求めて現れるのではなく、自分の中に見出すもの。
: >これを壊せというのだと太郎は言う。

至言やな。「仏に会うては…」は、臨在禅の言葉やが、見た目はより静かな曹洞宗の始祖、道元禅師の言われた有名な言葉に、「仏道を修するは…」というのがあることは、貴様も知っての通り。で、その最後は、「自己を学ぶことなり」、そして「自己を忘るることなり」と結ぶ。

この「忘れる」を破壊することだと捉えると、やはり太郎の言うてることと重なる。また、「壊せ壊せ、自己を壊せ」とやかましい臨在禅師であったが、弟子が壊そうとしているのを見ると常に殴ったという。(←完全に狂ってるが、それが禅でしょう。)「執着する自己も、執着される自己も無」ということが分かるためには、言葉を徹底的に研ぎ澄まし、その後に、それを破壊する行為がいる。そしてそれすらもトウラク(脱落)したとき、その瞬間が仏でしょう。

で、「おぉ、実はずっと仏やったんやな…」ということらしい。「無始よりこのかた…」って奴か。そこらへんは悟らなさっぱりですわ。仏を考えてしまうタイプの頭でっかちの俺は、理解した後、次には仏を感じることからスタートしたですな。

: >言葉に満足しているやからが多い。
: >景気が悪い、会社がしんどい、自分は頑張っている。
: >死んでまえ!

多いね。いらんね、そないな言葉は。はらの底からの言葉は「正語」であり「八正道」のトップを飾る修行の道。が、皮相上っ面の言葉は、「妄語」であり断たれるべきもの。「不立/フリュウ文字」を唱える禅こそが、最も言語を使い尽くす宗派であると言われることを銘記せよ。言葉を徹底的に吟味してこそ、それに流されず、かつ、それを乗り越えられる仏の智慧が出てくる。そう説いたのはNargarjuna菩薩であった。

彼の「中論」(の解説書)を読み、般若心経を読め。心経を読め。心経を読め。そして次に心経を読め。色々な心経の本を読め。唱えよ。ドクジュせよ。毎朝毎晩ドクジュせよ。壊れるぐらいドクジュせよ。やはり大乗の根幹やと日々思う。こいつに仏教徒にさせられたのや、とも、時々思う。それと龍樹菩薩な。このおっさんにチャレンジしたのが運の尽きやった。しかもアメリカで。何でもありやな、仏教は。

: >モンクFにも渇をいれるで!
: >壊しまくれ、この日本!創造するのだ。
: >そのためにはどこでも馳せ参ずるぞ。

かつ入れまくりしたれや!昨日の朝日新聞の夕刊か、「坊主になる人々」などという特集があったぞ。久しぶりに実家に戻ったら、母が読んでた。「おぉ、あんたやで!」言うて。何やねん、その「あんたやで」ちゅうのんは!?ま、「在家のままの出家」を米国の山の中で遂げた93年8月13日以来、その心はまだあると思うけど。

では、鏑矢寺、決定な。俺はあの不動明王結縁灌頂を、なんとしてでも体験したい。「壊す、びびらす、チョウフクする」のに一番適しているのは明王系。そして、これは兼ねがね言うてるように、俺は我が弱気心をぶち壊してくれる存在が必要やな。仏に会う。自分に会う。拝みましょう。

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