墓と幽霊と暗渠の三位一体(2016年8月・東京都谷中・全生庵など)

う~ん、体中があちこち痛い。そして若干の寝不足。
深夜バスに乗るのなんて、何年ぶりだろうか?
仕事を終え、昨夜は見送る妻に、「大丈夫ぞ! 達者でな」と、名古屋から勇躍飛び乗ったが、朝の東京駅八重洲口では、軽いめまいなどしておる。
ただ、来たからには寺めぐり。
 
円瓢とまずは日暮里で落ち合った。
小生、日暮里には初めて降りたと思う。
正直、東京に住んでいたときは、キレイなお姉さんのもとに遊びに行く出発地とのイメージしかなかった(すんません!)。
 
ところがどっこい。
少し歩くと、都会にも関わらず、江戸情緒が残っているのよ。
手始めに経王寺。
見どころは、ずばり山門。
ホレ、穴があいとるじゃろが。
 
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これ、彰義隊と新政府軍が戦った1868年の上野戦争のときの弾痕という。
彰義隊ってのは、平たくいえば、旧幕府軍が中心になり、新政府に反感を持つ輩で結成された。
それが上野の寛永寺に集まっていたのを、長州の大村益次郎が当時最新鋭の大砲などを使って、壊滅させたのが上野戦争である。
朝の戦闘開始から夕方には、新政府軍の勝利が決まったというから圧勝。
三方を囲み、根津方面だけ逃走路として残したのは大村の計算。
相手が進退窮まり、正面突破を計ろうとすることもさせなかった。
一部隊士が、経王寺に逃れてきたため、飛んだとばっちりとなった。
それがこの弾痕。
 
彰義隊の末路は哀れで、寺が新政府軍ににらまれるのを恐れ、当分は遺体も預かってくれず、野ざらしにされていたという。
会津戦争もしかり。新政府軍は敗者に厳しかった。
風格のある山門をくぐったが、本堂の扉は固く閉じられている。
どれ、寺のことでも少し聞いてみようと、ピンポンすると、奥様らしき方が出られた。
 
「すみませんが、今は住職がいませんので…」
 
たしかに、われわれが休んでいるのと反対に、お坊さんにとってお盆はかき入れ時。
今仕事せず、いつするぞ!
そりゃ、うっとおしがられる。うっかりしておった。
 
そこからは、彰義隊と逆ルートで上野方面に南下。
このあたりは、古い町並みが残っている。
 
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家をはさむ道は、車1台通れるかどうか。
消防車など、無理だろうね。
ということは、火事が起これば、バケツリレー!
 
「てやんでぇ、早く持ってこねぇか!」
「おめぇ、はっぴ着てねぇじゃねぇか!」
「火事は江戸の華ってんだ、忘れたんか!」
 
人力で消火するしかないということが言いたいんです。
昔火事になった大阪の法善寺横丁の小道より、狭いよ。
でも、趣はある!
 
そんな小道を抜けると、別世界。まさに異空間だな。
だって、あの世の入口だもん。
見渡す限り、墓だらけの谷中霊園でやんす。
高野山奥の院もこんな風景はあったが、都心でこの光景はちとたまげた。
しかも、よく見ると、個性的な形状があり、面白い。
遠くから見ると、ドーム状のお墓があった。
 
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モスクみたいに見えたので、イスラム教徒用のお墓だと思ったが、それはないか…。
横には、オーソドックスな角々したいかめしい墓石。「千人塚」とある。
しかも、こっちは「人」の文字の右のはらいに、3本の短い線が入っている。
「塚」には土偏がない。曰くありげ。
はは~ん、こちらは刀職人が罪人を試し切りしたとかいうときのものか…。
変な妄想を仏友とふくらまし合いながら、次なる目的地、天王寺に入った。
天王寺は、大阪では下町の象徴だが、
こちとらの天王寺は、寺がスーツを着たようなモダンで、
涼しささえ伝わってくる雰囲気である。
コンクリでできた現代建築の門をくぐると、
丁寧に刈り込まれた芝生が栄える境内が広がる。
 
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小ぶりの大仏もあり、外国人観光客はうれしそうにシャッターを切っている。
ずっと、ぼんやりしていたいようなゆるやかな時間が流れている。
そうと、仏友と先ほどの謎ときをしようと、寺務所のお坊さんに聞いてみた。
 
「さきほどの谷中墓地のドームのお墓はなんのお墓なんでしょうか?」
「あれは東大医学部の献体に出された方をまつる慰霊碑です」
「千人塚の方は?」
「あれは以前のもので、同じです」
 
丁重な対応だが、われわれが少し怪しそうに見えるのと、やはり忙しいので、ピリピリされている感じ。
お盆のお寺参りには気を付けろ。かき入れ時なんやから!
 
ちなみに、日本で最初の献体をしたのは、吉原の遊女だった美幾(みき)とされる。貧しさから吉原で奉公した彼女は梅毒を煩い、余命わずかというところで、医師からの申し出を聞き入れ、34歳で死去すると、遺体は医学校で解剖に使われたという。
 
お墓は、文京区の念速寺にあり、墓石がケースで覆われるなど、手厚く葬られている。そして、献体をされた方のためにも、谷中では毎年慰霊祭が行われる。
 
お寺をおいとまして、常緑の桜並木を歩く。
すると、ポツンと五重塔跡がある。
解説によると、ここに江戸を代表する五重塔がそびえていたとある。
 
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上野戦争を生き延びたのだが、1957年7月に全焼。
不倫関係の2人が心中を図ったことが原因という。
なにがスゴイって、その燃える様がモノクロ写真で紹介されていること。
劫火に巻かれて燃え上がる五重塔。
まさに、芥川龍之介の「絵仏師良秀」の世界。不謹慎ながら、美しささえ感じさせるような写真であった。
 
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そして、暑いさなかのお墓めぐりは続く。
 
案内板には、「毒婦」の墓とある。
娼婦の高橋お伝は、借金を断った男の首をかききったとされる。
毒々しい名前からして、何人を殺したかと調べると、その1人だけ。
しかも、彼女の人生は凄惨そのもので、最初の旦那はハンセン病を煩っており、横浜のヘボンに診てもらうためにと、娼婦に身を落とす。しかし、あえなく旦那は他界。それから知り合ったやくざものは、無頼の徒で商売を始めるも失敗した。そこで借金を知人に頼むが、これが悪人で体だけもてあそんで、知らぬ顔。そこで逆ギレして、お伝が首をかききったという次第。
 
どうして毒婦になったのかがわからない。しかも、案内板には丁寧に、トイレの横に墓が置かれるのは、それほどの業が…みたいなことが記されている。
でも、そんなこと書いちゃっていいのか? 殺された相手もいるだろうが、祟られまっせ、適当なことしたら。それでも彼女は、芸事関係者からのお参りが絶えないともいう。日本最後の斬首刑となった彼女の遺体も献体されたという。
 
南に向かい、桜並木を抜けて、左折すると、がっしりとした鉄柵で囲まれた西洋風のお墓がある。
 
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「ニコライやで。あの神田にあるニコライ堂つくった」
 
仏友がなぜか興奮する。
名前は知っているが、確かにあまりよく知らない。
 
「彼はロシア正教の聖人なんや。だからここは信者にとっては聖地同然。たぶん、昔酔っ払いが知らずに墓に腰掛けたり、ゲロ吐いたりしたもんで、信者が卒倒して、柵で囲って、禁足地にしたんとちゃうか」
 
散々な論理だが、米国バークレー卒の英才が話すと、そんな風にも思えてくる。
そして、ニコライである。聖人と聞くと、真面目な宗教家というイメージだが、写真をみると、少し違う。伸ばされた口ひげはインドのヨガ行者のようで異様。そう、風ぼうに違わず、激烈な男だったのよ。
 
1836年にロシアで生まれたニコライは、『日本幽因記』を読んで、日本伝道を決意する。そして、おそらく異国人が多かったということで、1861年に函館の司祭として着任。血気盛んな青年司祭は、正教を広めようとがんばった。ところが、それを快く思わないものも当然いる。攘夷を掲げる沢辺琢磨は「スパイだ。打ち首にしてやる!」と太刀を持ってけしかけてきた。対するニコライは、落ち着き払って、「まあわたしの話を聞いてからでも遅くはなかろう」と、泰然自若で正教について語り始めた。すると、殺人者が信仰者に改心。結局、秘密裏に行われた洗礼で、日本人最初のハリストス正教会の信者となった。なによりニコライがスゴイのは、布教には日本の文化を知らねばならないと、敵の本丸である寺に乗り込み、お坊さんにも教えを請うたという。だから、東京時代は天下の増上寺にも顔を出していたのだとも言う。
 
日露戦争が始まったときも、「母国に帰られては」と心配する周囲の勧めを断り、信者に対し、「皇軍のために祈りなさい」と、優しく微笑んだという。筋金入りの聖人!そういうとこを考えていくと、鬼畜米兵とか言っていた時代など、心ない輩が墓に乱暴を働いていた可能性はあるわね。そのための鉄柵だったのかも。
 
最後に、徳川最後の将軍、慶喜のお墓。これがまた異例で、彼だけ他の将軍とは別のところに、奥方と埋葬されている。しかも、墓は仏式でなく、石をドーム状に固めた神道式の円墳になっている。
 
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彼が水戸出身だったことが影響している。
水戸は尊皇の土地柄。徳川御三家でも独立の気風もある。それもあり、徳川300年の世から、明治維新にバトンを渡した。そして明治天皇からは爵位まで与えられた。だから、彼は感謝の意もあらわす意味も込め、神道式にこだわった。
それと、彼を取り巻いていた世間知らずの幕閣へのあてつけもあったろう。
ちなみに、他の将軍は、増上寺か寛永寺に葬られている。
 
「でもこれだけ有名人ばかりなら、オレらみたいにお墓めぐりする人間もいるんじゃない」
円飄も「そらそやろ。でも、徳川将軍じゃなくて、歴代ノーベル賞受賞者の墓があったら、毎年来るけどな。ん、それいいんじゃないか?」とかき回す。
「有名人の骨をリクルートするってことか。分骨してもらえばいいんやからな」
「それこそ、仏舎利の思想やで。世間のお寺では、でっかい看板出して、『一区画○○万円です』とかやってるけど、そんな必要もない。生前からリクルートして、こちらがお金を払って、墓に入ってもらう。『ここはホーキンス史の墓!』とかなれば、学者とかしょっちゅうお参りに来るやろな」
「なんで、ホーキンスかわからんけど…。でもこれは新たな寺院経営としてありかもな」「逆に、お金積んできても、『うちでは銭じゃないんで』とか断ったりして。分骨上等よ!」谷中の墓場のど真ん中で、真剣に妄想をふくらまし合ったのである。
でもほんとええと思うよ。積極的寺院運営として。
 
さて、期せずうちに濃ゆい寺院探訪となったが、まだまだ続く。
お次は全生庵。なんとここでは8月いっぱい、幽霊画のコレクションを展示しているのだ。ヒュードロドロドロ~。2階の展示室には、結構たくさんの人がいる。
 
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幽霊画だが正直あまり怖くない。幽霊なので仕方ないのだが、体が一部消えゆくようで、それがわびた幽玄の世界をあらわしているようで。
「面白かったわ」仏友は、じっくりと鑑賞していた。
 
「幽霊画って、結局あの世とこの世の境目を表現しているんやな。幽霊はこちらの世界を見ていて、幽霊から向こうの世界があちら。何もない空気に色をつけるみたいな…。異なる世界を同時に表現しているところが、幽霊画の本質とちゃうか」
 
なるほど、その考え方は極めて仏教的だわな。
幽霊という記号から、「お~こわ」だけを感じて、ヒンヤリ感だけで満足するのは、ちと寂しい。そこんところは、ご住職に聞いてみたいが…。いや今はお盆。またの機会にいたそう。
 
ほどよい情緒がある坂道を歩いていると、探している逸品が目に止まった。
『陀羅尼助丸』!
ダラニスケマルと読みます。
関西では修験道が生計のために作っていた胃腸薬として知られる。
先日、知人に「胃が最近もたれるんです」という話をしていると、「いい薬がありますよ」と紹介してくれたのが、この漢方薬。小生も修験の山でよく売っているのを見かけた。だが、関西以外ではメッタにお目にかかれない。それがなんと、この谷中で。これぞ、仏縁というか、ロシア正教の縁というか。
 
聞けば、ご主人が剣道の試合で関西に行き、「こんなに効くものはない!」と販売に踏み切ったという。確かに、知人も力説しておった。お寺は忙しそうなので、店守の奥様に話をうかがうと、いろいろな谷中事情が明らかになった。
 
まず、ここは昔からの寺町で、結構保守的な方が多いということ。
 
「伝統を守ることは大事なことですけど、祭りのときの提灯つけでも70歳を超える方が、『わしがやる!』と言って聞かない。周囲はハラハラですよ」
 
つまり、情緒があるまちというのは、それだけ保守勢力が根強いということなのだろう。でなければ、こんな東京の都心では、大資本にやられてしまう。
ただ、面白いだろうなぁ。そういう人らって、一度身内になれば、とことん面倒を見てくれる人かも。お寺巡りで知り合う人もそういう人が多いもんなぁ。
 
「お前ら、わかっとんなぁ。じゃあ、秘伝の奥義を見せてやろうじゃん」
 
わしらは奥の院に通されるか、打ち首しかないわな。
 
先ほどの全生庵は、なかでは新しいお寺らしい。といっても明治期。
だから、幽霊画とか、現代にマッチする斬新なアイデアが出てくるのか。
 
「へび道を行きたい」と告げると、またまた興味深いことを教えてくれた。
ぐねぐね曲がった小道には、川が流れていた。藍染川という。
それが上野の不忍池まで続いていたという。
夏目漱石の『三四郎』にも出てくるらしい。では、その川は埋め立てられたのか?
いや、表面上だけ埋め立てられている。これを暗渠(あんきょ)という。
高度成長期の都市部の河川の一部で、増水を繰り返したのと、異臭を放つので、環境衛生の面から蓋をされたもの。ネットを検索してみると、そんな暗渠マニアもいるらしい。
 
「ここら辺は、谷が多いので、その間が川になっていて。だから、今でも夏になると、蚊が多かったりするのよ」
 
なるほど、江戸情緒といっても、少しずつ都市化はされていっているってわけか。これも地下をひっぺがせば、あの世とこの世があるわけか…。この辺りは、そんな情緒も残り、東大や東京芸大もあることから、若者にも人気のエリアでもある。谷中、根津、千駄木の頭をとって、谷根千と呼ばれる。
そして、このあたりは、一枚地表をはがせば、異空間ともつながっている。
墓地と幽霊と暗渠。この世とあの世をつなぐまち、それが谷根千である。
 
 
天王寺
 東京都台東区谷中7-14-8
 JR日暮里から徒歩1分
 ☎03-3821-4474
 
全生庵
 東京都台東区谷中5-4-7
 JR日暮里から徒歩10分
 ☎03-3821-4715

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