そして高野山へ~1日目・夜

宿坊に帰ると、お坊さんが「ナイトツアーがあるので、行きませんか?」と声をかけてくださった。

夜の奥の院…。ゾクゾクするが、行かないわけがない。しばしの爆睡のあと、深遠なる闇の世界に繰り出した。

奥の院とは、開祖・空海のお墓。仏友の円瓢は、自分たちの本籍地をわざわざここにしているほどの聖地である。…もっとも、そんな奇特な奴めったにおらんけど…。入り口から、お廟までは2キロぐらいか。見所は、そこまでに約20万基あるともいわれる無数のお墓。「ナイトツアー」と瀟洒な名前がついているが、要は「お墓巡り」なのである。奥ノ院への入り口、一の橋はこんな感じです。
 

 pic koyasan okunoin entrance

われわれより若そうな30代のお坊さんが、懐中電灯を持ち、丁寧に「あれは武田信玄のお墓です」とか説明してくれる。しかも、それらは巨石が積み上げられたもので、2メートル強ととにかくデカイ。苔むした物言わぬお墓の中を夜歩くというのは、涼しさを増してくれるものであります。

織田信長のお墓もあった。ここには深い因縁のお話があるのです。

信長といえば、比叡山延暦寺を焼き払い、「神も仏も恐れぬ悪魔」と恐れられました。当然、仏教僧を屁とも思っていなかった信長と、17万石ともいわれた領地を有する高野山勢力が対峙するのは、時間の問題。そして…。信長に反旗を翻した荒木村重の家臣が高野山に逃げ込み、これを僧侶らがかくまった。信長配下の武将が捜索に来たが、狼藉を働いたというので、高野山側が成敗。すると、信長は報復として、諸国を布教などで回っていた1383人といわれる高野聖を安土城や京の七条河原で惨殺した。

さすがやることがえぐい!が、それでも手を緩めず、1582年には、兵を高野山に向けて発進させた。

比叡山の二の舞か…。誰もがそう思ったとき、神風が吹いた。明智光秀が本能寺の変で、主君を自刃に追い込んだんですな。これで、高野山はすんでの所で兵火にさらされることを逃れた。そんな高野山にとり、宿敵の墓が奥の院にある。これってどういうこと?

2006年9月1日に朝日新聞に掲載されたコラムによると、信長の家臣の弟が、高野山の悉地院の住職だったため、ここに運ばれ、はじめはそっと葬られていたのが、時代を経て、「もうええやろ」ということで、空海廟の近くに移されたのではと考えられているという。ちなみに、仇の明智光秀の供養塔も近くにあるのだが、「何度修復しても、ヒビが入るといわれているんです…主君殺しは大罪なので…」とは案内役のお坊さん。

なかなかわびさびの効いた説明ですな。

そして、一番奥手にある空海廟は、重厚なつくりで威圧感たっぷり。ここが大師信仰のおおもと。地下には、納骨堂らしきものがあります。小塔が所狭しと並んでいる。下世話ですが、これが1つウン万円とすると、その総額は…。やめときましょう。信仰がなせる業です。

ですが、創建当時の高野山の経営ってのは、ホントに厳しかったらしい。今でも電車で行くのも大変というところでしょ。真言宗のもう一つの道場である京都にある東寺は、朝廷や貴族からの支援も多くあり栄えていたが、都から離れた僻地にある高野山はというと…。そもそもこのお寺は、空海の私費で経営されていたため、始祖が亡くなると、一転して極度の経営難に。東寺の援助を受けて、何とかやっていたという有様。

こんなこともあったという。東寺に『三十帖策子』という空海が入唐の際に記した真言密教の奥義があったのだが、高野山がそれを借りて、そのまま拝借した。借りパチである。東寺が「はよ、返しておくれやす!」と言ったかは知らぬが、この争いは朝廷をも巻き込む大ごとに。結局、921年まで、高野山は返却しなかった。お宝を囲っておかなければ、求心力が得られないほどの惨状だったのである。

それが好転する出来事が、921年にもう一つあった。弘法大師という呼び名は、空海の代名詞になっている。だが、これはお弟子さんが朝廷に申請して、天皇から贈られた名前なのだ。諡号(しごう)という。その報告のために、お弟子さんが廟の中を開けると、あら不思議! お大師様が生前と同じ姿で禅定していたというのです。そんなアホな…。

それで今でも高野山では、空海が入定したとは言わず、禅定しているという。要は生きておられると。こんな行事も毎日行われています。お坊さんがお大師さんにご飯を運んでいるんです。お弟子さんは、生きたままの空海のお姿を拝み、衣を替えてあげて、廟窟を閉じた。これが、大師信仰の原型になったのです。

とはいえ、経営難克服はこれだけでは十分でなかった。10世紀後半に、小田原僧・教懐が現れる。彼は当時流行の末法思想とともに、この大師信仰を広めたという。末法の世をお大師様が救ってくれると。徐々に、高野山に寄付が集まってきます。さらに好機到来。とき同じくして、貴族の間に納骨や納髪がはやります。そして高野山信仰を決定づけたのが、藤原道長。彼が高野山に多大な寄付を行い、窮乏していた聖地が興隆の道をたどるようになったのです。ほっと一息。

2時間ばかりの肝試しが終わって、鼻歌交じりに、宿坊の風呂を出たときでした。

「なんじゃこらぁ!」。 あたりは真っ暗闇!!電気はすべて消されて、下駄を探すのも一苦労でした。宿坊では風呂上がりに一杯…とかいうわけにはいかない。そのわけは翌朝にわかるのですけど。

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