私は、仏友と生駒に向かった。なぜって、そこに「聖天さま」を祭る生駒聖天があったから。我々は、大阪福島の「福島聖天」というお寺で、縁あって月に一度イベントをさせていただいている。そこで、「聖天さん」にいろいろ功徳をいただいているのだが、ならば本家にもお礼にあがらねばと、聖天さまの大本山の生駒聖天を地獄ツアーの目的地に選んだのであった。
近鉄電車で、生駒駅で生駒線に乗り換えて約10分で、元山上駅に着く。駅前には、幹線道路が通り、意外に車の往来が多い。地獄とは、言えないぬるい道がうねうねと続く。金勝寺でおにぎりを喰らい、千光寺にたどり着く。開基は、役行者である。7世紀の伝説の仙人だ。彼が、生駒明神の参詣に訪れ、ご神託によってこの地に庵を結んだのが始まりとされる。漆の千手観音を刻んだのが名前の由来。息子を追って、行者の母も移り住んだので、女人山上とも言われる。その後、行者は霊感を得て、泣く泣く母を残して2匹の鬼とともに大峰の山上ヶ嶽へ修行の場を移した。ゆえに、別名を元山上とも言う。
門をくぐって、石段を見ると驚いた。なんと、一段ごとに行者さまが両脇におられる。さながら行者マトリックスのビジュアル。
その光景に圧倒されながらも行者堂に進むと、さすがに行者ゆかりのものがそろう。まずは、高下駄。おまけに鉄でこんなものをはいて、空中を闊歩していたというなら、行者はまさに鬼神のたぐいか。そして、錫杖。銀に輝く一本の杖もとても動かせるものでない。参道に「行者体験募集」と張り紙があるぐらいだからと思っていたら、やはりあった。行場である。それは整備された道などではなく、獣道といったほうがいい。先導がいないと、正しいルートなのかもわからない。鎖場を見つけて、かろうじて外れていないことを知る。ほぼ、垂直に登った先で、相方と目を合わせた。
「こ、これは、やばすぎるやろ…」
確かに、やみくもに進むだけが、能じゃない。我々とて、時間に縛られる悲しき生き物じゃ。役行者のように、ひょいと山を越えることは、できないのである。せめて、その追体験をとも思ったが、行場巡りはそれだけでひと仕事だ。この「地獄ツアー」の本願は、生駒聖天へ参拝することである。観念して、われわれは泣く泣く(実は半分ホッとして)鎖を握り直して、寺の境内に舞い戻った。
すると、また張り紙だ。「法螺貝の講習会」が行われているらしい。これは、ちょっとした驚きだ。あれは、山伏同士の直伝だけかと思っていたが、一般の人間にも開かれていたのだ。(といっても、ここまで来て習うとなると、開かれているとは・・・言えないか)そこで、ふと疑問がもたげた。「では、その法螺貝は、どこで買うのか?」もちろん、楽器屋にあろうはずもないし・・・。
(エピローグに法螺貝店探索あり。)
我らは、千光寺をあとにして、生駒山の山上に向かう。思えば、ここは高校の遠足で来たわ、まだ、我々(空石と円瓢)が友の交わりを結ぶ前であったろう。思えばあれが、われわれの仏縁のはじまり。平日の閑散とした山上遊園地。まさに貸し切りの様子。コインで遊ぶゲーム機を狂ったように揺さぶり、そのコインで単調なゲームを楽しんだ。あれから、15年以上の月日が流れる。今は、少しソフィストケートされたかしら。ともかく、車がぴゅーぴゅーと横をかすめるハイウェーをやりこめ、夕日にの美しさに友とひとときの浄土を味わった。
勝手口から、遊園地におじゃました。なんと、「冬季休業」らしい。遊園地に休みなどあったのか?まあ、だからといって、園内が閉められているわけでなく、あのときと同じく静まりかえった遊戯施設を通り抜けていく。自動販売機も「冬眠中」とあるのはご愛敬。と、そのとき2人の若者に声をかけられた。
「そっちに、降りていけますか?」
我々がきた方角に進んでいきたいらしい。そりゃ、そっちから来たんだから降りれるわな。でもこの時間から行くと・・・。そのことを話してやると、若者は礼を言って、我々が来た方向に進んでいった。大丈夫かしら。
道草は、我々の常なのだが、こんな日が落ちると目指す寺が閉まってしまう。こんな遊園地は早く出なければ。遊園地のケーブルの駅に着くと、駅員にお寺に電話してもらった。「お祈りだけさせてください」と無理強いするためだ。駅員から受話器を渡されると、電話口の声は、このうえなくあっさり。
「いつ来てくれはってもよろしいで。ずっと開けてるし」
「な、なんやてぇ!?」と目をまるくした。
「24時間営業やで、おい!」
「それはすごいな。コンビニ寺や。これからの寺の発展系やで!『悩み』っちゅーものは、病気と同じで、いつ襲ってくるかわからんしな。この寺みたいに、駆け込み用の緊急寺が必要なんじゃ!!」と、円瓢はまくし立てた。
我々は、うれしくなって、小躍りしてケーブルの横の道を奥駆けよろしく駆け下りた。(歩いて行っても同じですよ、と駅員が教えてくれたので。)
駅員さんにここでお礼を(合掌)。このケーブルのPRをしておこう。ケーブルは、よくあるような箱形の素っ気ないものでない。車体がファニーな犬の形をした底抜けにクレイジーな車両なのである。しかも、日本最初のケーブルだ。1918年に開通し、山上に遊園地が開園し、1929年に延伸された。時代が経るにつれ、生駒の町も発展していった。そして、このことがこのケーブルのすごさを特長付けた。なんと、乗客の4割が定期券を持っているというのだ。つまり、このファンキーカーは、通勤用に周辺住民に重宝されているということだ。あっぱれ、近鉄生駒ケーブル!
石畳を一気に降りると、生駒聖天・宝山寺にたどり着いた。やはり、本山というだけ立派な造りである。門をくぐると、荘厳なお堂が並ぶ。とりあえずは、お参りだ。奥に位置する破風が幾重に重なった聖天堂にあがった。この寺が驚きなのは、日も暮れようとしている時間に、境内には多数のお参りの方がおられることだ。しかも、参拝客は多士済々だ。お年寄りもいれば、若くて小ぎれいなおねえさんもいる。お賽銭箱に、信者の浄銭が投げ込まれる。
それは、ゴロン、という響きではない。ジャラジャラジャラーン・・・。どれだけのお金なのだろうか。お堂に入ると信者は、一心にお経に身をゆだねる。五体投地を行う信者さんもおられる。その空間は、神聖という静寂で満たされている。聖天さんの信者は熱心だとは聞いていたが、まさかここまでとは・・・。友と絶句した。
「現代日本の伝統寺院やのに、信仰が完全に根付いているでぇ…」
これが、原初の人と信仰の関係か。我らも、お堂にあった般若心経を手に取り、無心で唱えた。うやうやしい気持ちになって、お堂を出ると、さすがに日もとっぷり暮れていた。
聖天さん。これが、信者と信仰をつなぐ源泉だ。簡単に紹介すると、聖天さんとは、現世利益の神様だ。江戸時代に広まった神様で、商人や芸事にたずさわる人に信仰された。この神様の特異性は、天部の神様であるということ。もとは、悪の権化だったのが、観音さまの導きで仏法を守る神となった。それだけ、強力なパワーを持っているということだ。
また、その祀り方もややこしい。丑三つ時に、人間の体温と同じ油を尊像にそそぐ浴油法といわれるものだ。しかも、祈り方が粗末だと、怒ってたたりをもたらす。やっかいなお方なのである。それだけに、威力も絶大。さらに、愛欲や金銭欲といった、仏法が「煩悩」と捉える欲望ですらもかなえてくれる。実に、人間的な神様でもある。ゆえに、信者が熱心なことも納得できる。
そして、丑三つ時が一番効能が高いとなると、この時間目がけて信者も集まる。24時間営業のわけだ。ちなみに、聖天さまのお姿は、アタマが象の姿をしたガネーシャか、その象が抱き合った姿で表される。一般の方が、信仰していて、その方がなくなると、お祀りの仕方が難儀で、お寺に預かってほしい、と持ち込む方も多いという。
つまり、聖天さんの信者は「マジ」なのである。(聖天さんについての詳細は、われらが運営するこちらのHPに詳しく掲載している)
今度は、お寺の創建者に話を移そう。名を湛海という。三重の生まれだ。彼は、江戸時代のひとで、筋金入りの修行者であった。全国に修行の場を求めて、ついに霊験を感じたのがこの地。世俗から離れ、役行者、空海といったビッグネームの行場ということもあり、1678年にここに庵を開いた。
彼と聖天さんの縁も面白い。彼は、先輩が寺の普請を頼んできたとき、お金がなくて困った。それを聖天さんに祈ると、彼は「思い切ってやれ」という。それだけを頼りに、湛海は普請に取りかかるがこれが大失敗。えらい苦労を背負い込まされた。修行の邪魔もする。彼が、不動明王の修行に熱を入れていると、原因不明の激痛にに襲われた。聖天さんが、「われをないがしろにするでない!」と告げたという。2人の関係は、よく腐れ縁の夫婦と比される。ただし、どちらも命がけである。まあ、かわいさ余って・・・というが、それだけ湛海が見込まれていた裏返しであろう。
ともかく、湛海のおかげで、この宝山寺はおおいに栄え、参道には花街までできる繁盛ぶりであったという。また、お寺に至るアクセスとなる近鉄電車との縁も深く、生駒山のトンネル工事は、難を極め、あげく財政的に厳しくなった。それを助けたのが、宝山寺の浄賽だったという。湛海には試練を、庶民には手をさしのべた、「厳格で優しい」神様なのであった。