では、何故いま「地獄」なのか?「同行二人で山寺三昧」に、何か深い意味があるのか?我々も分からぬ。と言うか、教えて。とりあえず、酔狂なだけだろう。我々は昔からそうだった。思えば16歳の出会いの頃から。あえて「地獄ツアー」の理由を書けば、「そこに地獄があるから」なのだろうか?いや、違うな。なぜなら、そこは「山寺」であって「地獄」ではない。「地獄」にしているのはてめえらだから。要するに「perception」ってことだな。大乗仏教を支える理論的支柱の1つである唯識哲学ではないが、「認識」が全てだから。
このご時世、天国ですらちょっと油断すると地獄になる。生活の「安定」が「危険」に変わるのに1ヶ月もいらない。大企業の株価が3分の1に減るのに3年もかからない。ならば、ある意味でこの世の天国とも思われる寺参りを、地獄と見えるほど大変なものにするというのも、また風狂な認知の置換ではなかろうか?しかも、山寺にはごっつう珍しい仏様がおられたりする。本当に、ごっつう。科学的に言えばそんなことはないのだろうが、我々を待っていてくれていた/ずっと待っているところのような気がする。そうなったら、もう行くしかないだろう。そう。「仏が我らを誘う」のだ。それが理由かも知れない。「からっぽに、仏がはりついて」。そんな気持ちで山寺を同行二人。弘法大師もそこで笑っておられる。
福よ、こっち来い。鬼よ、ついて来い。