うどんと富士塚と陽水(2016年6月・東京都・小野照崎神社)

言うまいか、言わぬべきか?
 
東京でうどん屋に入った。
なんでも「関西風手打ちうどん」とある。
関西出身の懐かしさで入ったら、満員。結構有名な店なのかもしれない。
忙しそうにおやじが、一人で店を仕切っている。
そのため、おそろしく回転が悪く、
8人がけのカウンターでうどんが出ているのは、1人のみだった。
こういうときだけは、関西でいう「いらち(せっかち)」な気質が顔をもたげて、店を出ようかとも考えたが、誰も文句を言わないで当たり前のように待っているので、ピンときた。
 
「うまいのだ!」
 
そう思って、うどんが出るのに10分(気の遠くなりそうな時間に感じた)は待った。
そして、うどんをすすった。
ん、ん…。
薄味なところは、関西風である。ただ、この麺はどうなんだろう。
こしがあるというのだろうか。というか、急ぎすぎて、まだゆであがっていないように思う。さらに、麺どうしがひっついて、もちのようだ。
 
『あのう…』
 
声を出しかけて、引っ込めた。
店内に響き渡るのは、井上陽水。
てっきり有線だと思っていたが、振り向くとミニコンポ。大将の好みらしい。
出そろったうどんをカウンターの客はみな、無言ですする。
 
「うまいのであろうか?」
 
6月30日に富士山に登ってきた。
といっても、うどん屋の近くの東京都の小野照崎神社である。
 

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富士塚というのがある。
江戸時代に富士信仰というものが流行し、信者がわざわざ富士山の溶岩を船やら荷車を使って、神社に運んだそうな。10メートルぐらいはあるのかな。
頂上から、富士山の方向に向かい、祈りを捧げると願いが叶うそうだ。
これが富士塚。こんなお手頃富士山が、関東には数多ある。
なかでも、小野照崎神社のものは、重要有形民俗文化財に指定されている。
けったいなもの好きの先輩から知らされたのだが、行って驚いた。6月30日の「お山開き」は、人であふれていた。
先ほどまでの雨で足場が悪いのと、結構細くて登りにくい山道? に妙齢の男女が殺到するため、行列はすぐに渋滞する。だが、せかして転んだりしたら大ごとである。それより、富士山で転んだともなれば、縁起が悪そうである。
一歩一歩、心して進んだ。
 
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富士山の方向を見て、願い事を祈るのだそうだが、あいにくその方向には富士塚よりはるかに高いマンション郡が視界をさえぎっていた。
昔は、霊峰が一望できただろうに。
 
無事地上にかえると、「茅の輪くぐり」なるものがある。
神道の神事で、6月の晦日に、茅でつくった輪をくぐり、災害から身を守るというものである。こういうよく意味のわからないものこそ、わたしは愛する。みなうれしそうに、輪をくぐっていく。
 
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今回の訪問は神社であったが、ここでは輪について考えたい。
仏教で、輪は重要である。
法輪という言葉がある。
古代インドで輪とは、敵をやっつけるため用いられた投げ輪のチャクラムを指す。
それが転じて、仏法が悪事を打ち砕くイメージと重なった。
仏教の専門雑誌に「大法輪」というものがある。
いかに、仏教と輪が離れがたい関係であるかがわかっていただけたと思う。
 
さて、またうどん屋の話である。
うまいかまずいのかは、関係ない。
(うまいのかもしれないけど…)
 
重要なのは、あまり関西のうどんをすすったことのない関東人が、
関西風うどんを楽しむことに意味があるのである。
客は極論すれば、関西を味わいに来たのであって、
うどんは二の次なのだ。
 
そして、富士塚である。
なぜこんなものがつくられたかというと、
江戸の人の気持ちにならなくっちゃいけねえ。
彼らは、富士山を見るけれど、富士山には行けないのである。
だから、ミニチュアの富士山で満足したのである。
考えてみりゃ、本物の富士山はてっぺんなんかにゃのぼれねぇ。
だったら、富士塚最高じゃねぇか!
 
ミニコンポの井上陽水は、「なぜか上海」をさえずっていた。
 
「海を越えたら上海
どんな未来も楽しんでおくれ
海の向こうは上海…」
 
この歌は不思議な歌です。
「シャン・ハ~イ」の節回しが耳に残って、なぜだか好きな歌。
でも、上海を期待してもどこにも上海らしきものはでてこない。
これが陽水マジック。
そうオチはわかりますな。
みなは陽水を楽しんでいるのであって、上海を求めているんじゃない。
 
これで茅の輪のごとく、まあるく収まったかしら。
 
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小野照崎神社
 東京都台東区下谷2丁目13−14
 JR鶯谷・南口から徒歩7分
 ☎03-3872-5514

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