円瓢によるエッセイ

From:   モラ坊円瓢
To:    モラ坊空石
Subject: 「本当の遊び」は人生と仏に通ずる;金勝山体験まとめ;我等の宿題

昨日は共にご苦労さんであったことよ。

久しぶりに「登山」をしてまで仏を観る、というhardcoreな仏教修行者的行為を満喫でき、同行人物の適切性と共にあり難い縁に感謝をする次第でございます。 空石もバス中で繰り返していたごとく、全くもって【matureに、またprofessionalにはなってるかも知れんが、中身のcoreな部分は高校時代のまま】という我等の楽しき精神性の確認ができ、喜喜(鬼気)とした。大いに変であると同時に、「つまらん大人」になる可能性が森内閣の支持率が100%になるのと同じぐらい稀な我等の「アソビごごろ」に自覚させられたことでしょう。

 「がきの遊び」から(大乗仏教/とくに禅の境地である)「融通無碍」へと変質すること。若き「酔狂」から一休和尚の「風狂」へと脱皮すること。「遊びに囚われ(執われ、とも書く)る」から「トラワレヌ心で遊ぶ」へと深化すること。これが我々修行者のアソビであり、ホンモノの遊び、突き詰めれば「一流の生き方」ではないか、と説く。 そう思うと、昨今妙に「ゆとりブーム」などにのって刊行される多くのファッションまがいの「~で遊ぶ!」といった「大人の」雑誌のうすっぺらさが、彼らが「推奨」している執着する方向での遊びへの風流を欠く儚さが、カナシく見えてくるというもの。

遊びは心を捉えるものにアラズ。心を解放するためのものなのだ。英語での「仏教覚り」の訳語は「liberation」。「解放する」という英語も、liberation。吟味しよう!冥想的に覚めているのと遊び心があるのとは矛盾せぬ。 

俺が真友たちに要求し、志あるものどもに推奨している「遊び/生き方」への態度は次の言葉に凝縮可能だろう。「<人生の枠外>で勝負するな」。逆の言い方をすれば、「<人生の枠内>での勝負は、どんな些細なものごとでも真剣で尊い」のだ。 

会社経営者、被雇用者、フリーランス…職業・職種がなんであれ、そのmajority時間を費やす仕事が「つまらん」だの「パンを稼ぐため」だの理由で、完全にそこから隔絶したアソビの形でスリルを消化する態度は、やはり一流とは言えないだろう。それは「仕事からの逃走:趣味」であり、人生の枠外での勝負となる。

競馬やパチンコ、不倫、株式投資での勝負、クラブでの乱舞、つつましい趣味…それらが人生全体としてみた時にきちんと<枠内/メイン会場>での勝負になっていない場合は、その勝負は「つかの間の宴の枠」という空虚に隔離された逃避会場における色事。まるで投票後の開票作業の如し、あっさりとした高価な茶番。このとき、彼らの「息抜き」は「生き抜き」に写るだろう。結局、真剣さも中途半端となろう。 

「人生の枠内での充実した一こま、だが生業とする職業とは違うタイプの活動」という一筋の流れの中でパチンコをまた競馬を捉えるとき、それは素晴らしき「人生の枠内での勝負」となる。どちらにも全力投球。同様に真剣勝負。両方に補完的な充実感を感じる余裕。これを「粋貫き(いきぬき)」と呼ぼう。 多くの人が謙遜として述べる言葉、「趣味はサブ。でもメインの仕事よりも力入れてますねん」という錯乱した偽善的態度は、酸素、社会資本、その他の浪費であるばかりでなく己の人生の浪費でもある。

気付かねば、損をするよ。仕事だろうが趣味だろうが、どちらにも不毛に搾取された人間の殻だけが残り、結局得をしているのは資本家で、君たちは躍らされているだけ…となっちまう。これが、根本を押さえていない「多趣味」の人が案外と安定的な精神構造を持てない秘密とも言えよう。 どんな肌触りの「趣味」でもいい、それが「人生の枠」内で語られる一貫性をもつアソビに消化しない限りは、「ただの暇つぶし」の域を出ない。

高等な趣味、下等なアソビという定義なぞ存在しないのだ。問題は恐らく、多くの人々が勘違いするように「何を趣味とするか」ではないのだろう。「どう趣味とするか」が、仕事する人間に問い掛けられるべき、共通の、そして真に重要な、質問なのだ。 

「息を抜き」つつ「粋を貫け」。決して「生は抜く」な。

我等が仏教に大きなヒントがあるではないか。 どこまで行っても人生の枠内での勝負だからな。 

我らが「地獄巡り」の記念すべき初札所である金勝山。行を終えた我々に残されたのはいくつかの宿題だ。

○ 次なる「観仏行」の候補地選定
1) 京都は「内魔都」と「外魔都」を巡る日程を決めること
  * 八方睨み龍の妙心寺、400円で観ること
  * 円瓢愛用の釘抜地蔵と晴明神社、行くこと
2) 京阪神エリア、特に琵琶湖方面で「お隠れ変地帯」探す
  * 山寺、特に可
3) 「ケから急にハレ」、(例えば)阪急沿線の驚き旅、を画策

○ 「茶沸観音」の研究
 * 「毬藻キティーちゃん」を越える(うそ)
 * 親父の予想では、「ソコラヘンで一服して茶を沸かしたのだ」
 * 大ヒット、茶沸観音マントラの研究~菩薩のupaya(方便)を勉強する

以上でござます。訳の分からんカンブツの旅、また行おうぞ。

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