生き残った寺(2015年11月・愛知県豊田市・山中観音堂など)

歴史に、もしもなどない。
でもしかし、あの愚行がなかったなら…。
応仁の乱、織田信長の延暦寺焼き討ち、太平洋戦争中の金属供出令など。
明治期の神仏分離令はこの中に必ず入る。
神仏分離令は、神道を国教化し、天皇中心の政府をつくるため、1868年に出された。
新政府の中枢だった薩摩藩などでは、廃仏毀釈の嵐が巻き起こり、領内にある1000以上の寺院が打ち壊され、僧侶も還俗させられたため、ほとんどの寺とお坊さんが消滅してしまった。
 
三河もご多分にもれなかった。もう12月近くだが、今年はちと事情が違って、気温が暖かい。名古屋市内から東に車を飛ばし、猿投グリーンロードを進むと、両サイドには黄色に色づいた木々が、目に飛び込んでくる。猿投ICを降り、北に行くと、三河の古社である猿投神社に至る。参道にはイチョウが黄金色に輝き、こちらの景色もすばらしい。
 
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当方はあまり神社には関心はないのだが、拝殿はなかなかの建造物である。神社というものは、神様の御在所なので、人間が目に付くところは、限られており、そのため、距離があるというか、ガランとしているイメージある。つまり、物足りない…。だがこの拝殿は、古木が醸し出す重厚感といい、歴史を感じさせる古代の息吹が迫ってくる。季節といい、天気といい、場所といい、最高なのだが、目的地は寺である。
神社からそれた寂しい脇道を歩いて行く。
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2、3分で小さなお堂があった。その名の通り、山中観音堂である。広大な敷地に威厳を持って建つ猿投神社を見てからだと、「なんじゃ?」となるであろう。少し寂しいお堂だ。古いというか、屋根もトタンで、うち捨てられた感さえある。連れもそう感じただろう。だが、このお堂には深い意味がある。説明すると、この神社にはかつて立派な三重塔も、護摩堂もあった。つまりお寺であった。昔は、寺も神社も神仏習合していたところが多かったので、仏教と神道が混然とした猿投大明神と呼ばれていた。真言宗だったと歴史書には書かれているという。そんな神社ではない神宮寺なるものが、ここにはあったのだが、廃仏毀釈という時代の波に飲まれてしまう。僧侶は神職となり、仏堂も取り壊された。そして、今の猿投神社となった。だが、山中観音堂だけは少し離れていたという理由で、取り壊しを免れた。お堂には平安期とされる千手観音像が眠るという。これは絶対秘仏。扉はのぞけるようにはなっているのだが、内部は真っ暗。当然、秘仏はお厨子の中であろう。ある仏師さんが拝見したという話も聞いたが、真相やいかに。
 
ともかく、誰にも見られない仏像が、うち捨てられたお堂にいたおかげで難を逃れた。
 
後日、知立というところに行った。ちりゅうと読む。
別に、寺から神社に鞍替えしたわけではないが、知立神社に足を運んだ。
東海道の宿場、池鯉鮒(ちりふ)宿があったため、名鉄知立駅を少し歩くと、木造の垣根が続く歴史風情の残る通りとなる。この日は12月2日。旧暦の11月21日で、弘法さんの日という。通りには弘法大師を祀ったお堂が開けられ、年配の方が手を合わせていく。
 
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そういえば、知立駅の構内にも、お堂があって、縁日がPRされていたな。それにしても、今年の正月に行った知多半島といい、ここいら辺はお大師信仰が根付いている。これはじきに調べないといけないテーマやわな。話がそれたが、駅から10分ぐらいで知立神社に到着した。
 
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正面の拝殿より、パッと目に飛び込んでくるのは、その手前の多宝塔。軽やかさといい、歴史を感じさせる風格といい、すべてにバランスがとれている。室町時代の創建だという。
 
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だが、この美しい建造物も廃仏毀釈のときは、取り壊しの危機だった。
現に、参道に隣接していた総持寺は廃寺にされた。
だが、「これをつぶすのは忍びない」と機転を利かせた賢人がいた。
裳階などを外して、内部の仏像も持ち出した。そして、多宝塔を書庫と主張。難を逃れたという。いやはや、おみごと!
 
オチはないのだが、生き残った寺の話である。
でも、なんで他は壊しちゃったんでしょ。
そこについては何度も首をかしげてしまう。
 
山中観音堂
 愛知県豊田市猿投町大城山中観音堂
 名鉄・豊田市からとよたおいでんバスで猿投神社前下車
 電話0565-45-1917(猿投神社)
 
知立神社
 愛知県知立市西町神田12
  名鉄・知立から徒歩12分
 電話0566-81-0055

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