海に屹立する空海!

昼過ぎから快晴になった。気持ちのいいドライブである。
ふと、けったいなものに出くわした。

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えっ…!ちょっ…えええっつ!!?

 

超然と、鯛を抱くカッパが鎮座している。
何ともすっとんきょうな。でもなんで、川でもないのに、海にカッパ? シュール感満載の造形である。名を「花ちゃん」と申す。しかも娘ということ。家族もいるとのこと。…知らんがな、心の底から。
知多半島は、「なんで?」ということを考えさせてくれる土地である。

 

調べると、昔は海水浴場のキャラクターだったという。今でいうとこのゆるキャラの走り。知多半島は、西海岸の方が海水浴場として知られ(東側は住宅地や工業地が多かった)、それに後追いするため、カッパ親子をキャラクターに、毎夏にイベントをぶっていた。今でもやっているのだろうか? 3年間名古屋に住んでいるが、そんな風の便りは伝わってこないのだが…。

 

南に向かうにつれ、天気が怪しくなってきた。分厚い雲が現われ、空は鉛色に。底冷えもするときた。納め地獄の本題に戻るとする。目指すは上陸大師! 自分的にはここが、ある種のハイライトだと思っておる。ただ、そこは地獄巡り。簡単にはたどり着けません。むろん、カーナビにもない。

 

ひなびた漁港らしきところに目星をつけ、行ってみたが、その気配もない。カラスのもの悲しい鳴き声が、寒さをより感じさせる。だが、ふと海に目を向けると、海中にうっすらと、浮き出たものが視界に入った。

 

「あれやろ!」

「そうか、でも少し遠いな。あまり形がわからんなぁ」

「確かに、これだと、前の住職が言うように、渡れるとは思えないわな。オレの勘違いかな」

 

kukai not really

 

仏友と、微妙な喜びを分かち合います。

 

ただ、妻だけは違いました。

「私は灯台にしか見えんけど…」

 

目が悪いわれらの勘違い。地元の釣り人に聞くと、はるか向こう岸を指さしてくれました。

 

「そらそうやろ。あんなマッチ棒みたいな空海さんやったら、がっくりやもんな」

 

ホントにホッとしました。正月から2人をこんなところに連れ出して、こんな結果では許されません。気を取り直し、案内された目的地に着くと、あたりは雪が舞っておった。

 

そして、高い堤防のちょい向こうの海に、弘法大師が立たれていたのです。

 

「おお!」

 

神々しい…。海から、錫杖を持った空海が、まさに上陸せんとしている。空は今にも落ちようとする重苦しい鉛色で、海は東宝映画のはじまりのような荒波が寄せておる。雪が激しく舞い乱れる。こんな荒々しい劇画ちっくな光景は、他になかろう。自然とみなで手を合わせた。

 

joriku daishi

 

さて、この空海さんですが、2008年につくられたもので、意外に新しい名所なのだ。あまり知られていないが、必見スポットですぞ。

 

それにしても、とにかく体の芯からこごえる。医王寺という近くのお寺を拝んで、最終目的地の岩屋寺に急いだ。

 

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岩屋寺は知多半島の海側でなく、少し内陸部にある。
結構な大寺である。この巡礼で、はじめて人が賑わっているのを見た。
何度も言うが、あたりは雪が舞っている。
最終目的地である。無論、ここに来たには、わけがある。

 

この近くに、医王寺の奥の院というものがある。
空海が岩窟にこもり、護摩行をした場所だと伝えられる。
先の上陸の地から、ここに留まり、修行されたという。
うっそうとした参道を過ぎ、三重塔をこえると、階段があり、コンクリートの建物の中にいわくありげな石窟がある。前は座敷になっており、ゆかしき人は、ここで靴を脱ぎ、行を行うのだろう。われは菅笠を脱ぎ、深々と頭をたれた。

 

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これにて満行である!

地獄巡りを満喫した。

 

ふと、名古屋駅で伊集院静の「無頼のススメ」という本を手にとった。そこに偶然にも空海のことが書かれていた。空海は朝廷の使命を背負った最澄とことなり、ずっと中国にいようと、腹をすえるも、学ぶことはすべて学んだとわかるや、2年で日本に帰ってくる。その軽妙さたるや、何ものにも囚われない自由がある。空海は帰京の際にこんな言葉を残したという。

 

「虚しく往きて実ちて帰る」

 

無頼の作家が語りかける。
空海が、実ちて帰れたのは、虚しく、つまり、何も持たずに飛び込んだからではないのか? 捨て身の覚悟が、密教の奥義をたぐり寄せることになったのではないかと。旅もまたしかりではないか? 

 

私は旅行会社のツアーを好まない。そりゃ、バスに乗り、目的地に連れて行ってもらえれば、楽ではあろう。団体行動がわずらわしいというのもある。だが、それよりツアー会社が、用意する商品とやらは、どこかお仕着せ感が過ぎまいか? 雑誌で見たり、テレビで見たり。そんなお気軽なもので、われらは満足してもよいのか? そういう意味で、地獄巡りは反骨の旅でもある。土産も持たずに、頭をからっぽにして赴く空なる旅路である。

 

博覧強記の哲学者・内田樹とヨーガの達人との対談で、興味深いものがあったので、最後にご紹介する。

 

内田が切り出す。世の中には、時間を守れない人というのがいる。これが、どうしても直らない。どれだけ怒ってもだ。だが、視点を変えると、実は彼らは守っていかないといけない人種なのではないかと。そこで比喩が出る。イワシの群れとうのは、あれだけの数のものが、一方向にきちっと進んでいく。だが、わずかだが、数匹はその群れから外れるものがいるという。これは、遺伝的なものなのだと。これが、神が定めし差配と…。

 

つまり、みなが同じ方向に進むとする。そこにサメが口を開けて待っていれば、イワシは絶滅となる。それを回避するため、選ばれしものは、遺伝的に多数派とは逆に行くように、プログラムされているのではないかと。無論、時間にルーズなことを肯定しているわけではないが、多数派というものには、常に懐疑の目を向けるべきだということだ。深い。

 

旅もそういうものではないか。日常からしばし脱却することで、己と向き合う。だからこそ、己を再構築できる。そんな異空間に日常をそのまま持ち寄ってはめ込まれたら、たまったものではなかろう。そもそも、大多数の人間と同じ感動を共有できる感性とやらが、われらには備わっているのか? 中村雄二郎もびっくり。はなはだ疑問である。 

 

「虚しく往きて実ちて帰る」

 

含蓄のある言葉である。
裏返せば、実ちて往きては虚しく帰るのみであろう。

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