更新日:2004年09月14日


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17年ぶり爛漫の聖天藤の鑑賞会

去年は満開だった藤も…

満開の藤を心待ちにしている住職さんです

頑張れ、阪神タイガース!

「声明」について 2004年8月
 「えぇぇ!?に、2時間もかかるんかい!?」
 「そうやなぁ、一通りやろう思たらそんなもんやな。」

 思わず絶句する私に対して、副住職の高ちゃんは平然と言い放った。「『声明』ってどのぐらい時間かかるんや?」に対する彼の答えは単純明快であった。「これは絶対に今回の『聖天句会』奉納の際にやってもらわな、あかん。」心に、決めた。
 真言密教では悟りの世界を様々な方便でもって表現する。それは我々がよく知る曼荼羅であったり、立体曼荼羅であったり、真言であったり、そして経典であったり。その表現の1つが声明だと言う。

 --そもそも声明とは仏教音楽の中の「声楽」に属し、インド・中国・日本を通じて仏教音楽の中心を成しています。今から二千四百年余り前、インドでは既に声明の原型があったことが、数々の経典の記述によって窺い知ることが出来ます。仏教の伝来と共に我が国にも伝えられましたが、真言密教の声明は弘法大師によって大同元年(八〇六)に伝承されたと伝えられています。--
   (高野山声明の会 http://www.syomyo.jp/

 浄瑠璃や謡曲といった日本の伝統芸術の原型とも言われるこの独特の宗教音楽には、数多くの派があり、多くの技巧が存在する。それらをマスターするのに多大な時間と労力とを要することは想像に難くない。それを行えるというのだから、同い年であるこの副住職をとりあえず、それだけで尊敬してしまう。

 唸る私を尻目に、高ちゃんは続ける:
 「ほんまにざっくり言うたらな、『前讃』ちゅう仏を讃えるブロックが先ず来て、次にご存知の『理趣経』が普通に詠んだら20分ぐらいか、が来る。それで最後に『後讃』ってのが来るちゅう流れや。」
 「その『後讃』ってのは『前讃』ってのと同じなんか?」
 「いや、『仏を讃える』っていう意味は同じやが、前と後ろでは違うねん。」
 そんな説明を聞きながら、「では実際にリハーサルをやろう」ということになった。
 「あんまり長すぎてもあかんし、聞いてて退屈になってしまってもあかんからな。どいうタイプのがええか、実際に聞いてくれ。そこから選んでもうたらええわ。」
 サービス精神旺盛な副住職はそう言うやいなや、「鉢」と呼ぶシンバルのようなものを取り出し、年季の入った長い数珠を繰り、居住まいを正して経典のようなものを取り出した。そして本尊の聖天さんに向かう。
 それからおよそ15分。汗びっしょりになりながら「散華」と「善哉」という2種類を朗々と詠じてくれた副住職に感想を述べ、後者で行くことになった。

 15歳以来の真言密教ファンだが、この声明はその存在こそ知れ、実際にマジカで聞いたことはなかった。これは面白い。9月の中頃に所用で高野山の宿坊に泊まることになっており、そこでも声明が聞けるとのこと。これでまた楽しみが増えた。

 副住職の声明はこちらで行なわれました。

境内の藤について 2004年6月
 「今年、阪神は優勝できませんかなぁ」と住職が境内の藤棚を見上げて寂しそうにつぶやいた。

 視線の先に花房はない。6月は藤のシーズンだが、枝が繁々としているのみだった。去年の阪神優勝時は、これでもかと思うぐらい藤の花がたわわに咲いたという。地元の人と『吉兆の前兆』だと喜んでいたそうだ。
 「毎年、きれいに咲くとは限らないんですよ。いろいろ手入れが大変なんです…。」

 小学校のとき、運動場の傍らには必ず藤棚があった。そのときは、毎年咲いているものだと思い込んでいたが、そんな苦労があるものなんだ。

 藤は江戸時代からあった(戦争で焼けている)そうなのだが、住職の母親は、「咲いているのを見た記憶がない」と言っておられたらしい。それが、昭和61年に、信者の方が熱心に診てくれるようになった。米のとぎ汁や魚の骨を肥料にして、ビール瓶で根を囲ったりして世話をしてくれたという。その甲斐あって、満開の藤の花を見ることができた。そこまでは良かったのだが、その方々もご高齢になり、次々と亡くなられたので誰も世話をしてくれる人がいなくなってしまう。そしてまた、藤の花を見ることができなくなったのだ。

 「ここの藤は咲くんですか?」と、以前の写真を見た方が訪ねられた。ライオンズクラブで『野田藤ウォーク』を企画されるらしい。江戸時代は、野田は藤で知られ、難波の商人などが、藤を楽しみに野田に遊びに来たらしい。それを復活させようという試みだ。
 クラブの紹介で植木職人の田村さんに来てもらった。まず、木を診断して、掘り起こしたりして、」病人」の世話に地道に取り組んだ。

 「とにかく、無茶苦茶でしたわ」と話す田村さんは、平等院の藤なども手がけるこの道の専門家だ。信者の方の献身的なお世話も残念ながら、やはり自己流のものだったという。
 「まず、木の伸び方などそのときの悪い癖を修正してやらないとだめだった。また、ハトが芽を食べるので、ネットをつけました。でも被せすぎると、枝が自然に伸びないで、固まって日が当たりにくくなる。ここら辺が難しいところです。」

 花が咲くのは、なんとおととしの気候が影響する?!
 「雨が少なくて、暑いと枝があまり伸びないので、日があたりやすくなる。それで、前年の夏に花芽が付く。それが、次の初夏に花を咲かせるんです」
 …なんとも、気の長い話ではないか。

 「まだ、この藤は癖が悪い、まだ直さないと・・・。気の長い話ですが、藤の樹の寿命は100年もある。この藤は、まだ30年ぐらい。あと70年ぐらいは大丈夫ですよ」

 お寺で満開の藤を見るには、阪神の優勝しかないのかなぁ・・・。
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