禅僧が語る歩き遍路(2023年2月・香川県・喝破道場)

高松にある座禅道場「喝破道場」をたずねた。2度目の訪問は雨の降る寒い日だった。
JR鬼無(きなし)駅には、防寒チョッキを着た野田住職が待っておられた。
 
「電気自動車だけど、電気が切れそうだから、暖房は切らせてもらうね」

日産の電気自動車は、「中古をもらい受けた」と言うように年期が入っているように見える。それは単に古いというのではなく、思いついたらすぐ実行の住職が日頃から使い倒しているからだと思った。道場は、高松市にあるとはいえ五色台という山中に位置する。道場では座禅も行うが、心の病を持つ若者の自立支援施設でもある。バスもないので、迎えに来ていただいた次第。木々で覆われた山道を20分ばかり走ったか。プレハブの建物では、入居者が用意してくれた夕食が始まろうとしていた。

DSC_0531

20代だろうか。若者が作ってくれたおかゆが、実にうまかった。住職が「ごま塩もかけて」とすすめるので、一振り。ほのかな塩気がうまみを引き出してくれる。味わうとはこういうことを言うのであろう。禅スタイルなので、夕食中は黙食。それが、なんでもない食事を奥深いものにしてくれる。

片付けが終わると、住職としばし歓談。この喝破道場は四国八十八箇所札所の間に位置する。

どちらが言い出したか、自然とお遍路の話になった。住職は曹洞宗の僧侶だが、若き日に当時の師匠から「お前も遍路をしてこい」と言われた。みなに告げると、せんべつだけで相当集まった。「これなら困るまい」と思ったのが若気の至り。曹洞宗の厳しさがあった。

 

「お金は葬式代の1万円だけ持ってけ。ホテルも遍路宿もいかん。住民に頼んで泊めてもらえ」

苦行が本物の苦行となった。昔といえども、お坊さんだから…といって簡単に泊めてくれるものではなかったらしい。お接待文化の国でも、知らない人をたやすく家には入れてくれない。何軒か声をかけてようやく「これで堪忍な」と、案内されたのは家の近くのビニールハウス。そこにおがくずを敷いて、横になった。「それでも涙が出るほどありがたかった」。禅僧のお遍路はいばらの道だった。

歩きお遍路をされた方に私はいつも聞く。「不思議な体験などはあったのですか?」。野田住職は「いろいろあったよ」と遠くを見つめる。
お遍路というと、平地より、山道の方が大変な気がする。だが、徳島の札所間の気が遠くなりそうに長い海岸線を歩くのもきつかったという。そんなだらだら道をへとへとで歩いていると、日が暮れてきた。後ろから自転車が来て、「そっちじゃなくてこっちの道」という。どう考えても違うと思ったけど、地元の人が言うならと、きびすを返した。だが、人家はほとんどなく、道は段々心細くなっていく。「おかしいな」と思いながら進んでいくと、歩いてきた女性が「どこに行かれるの」とたずねる。事情を話すと、「悪い人がいるのね」と憤る。「ああ、やっぱり」と引き返そうとすると、女性が「もう遅いから、うちでお泊まり」と言ってくれた。疲れていたので朝まで熟睡したそうだ。起きると、にぎりめしまで用意してあった。再び礼を言い、次の札所を目指した。結構時間がかかったという。見晴らしのいい場所に着いたのはお昼頃。もらったおにぎりをほおばった。
まてよ。あのとき、若者を信じず進んでいたら、オレは真っ暗の中、ここまで歩かないといけなかったのか。無事でいられたかどうか…。だまされていたのかしれないが、信じてよかった。

別の日は、空腹で歩いていた。岬に沿って歩いていると、向こう岸が見える。ぐるっと回り道をしないといけない。「あぁ、ここを真っすぐ行けたら…」。かなりの極限状態だったと見受けられる。目の前に橋がくっきりと現れたという。「ありがたい」と思ったが、なぜか渡らなかった。そして岬を歩いていくと、石碑が目に付いた。弘法大師が付近に橋を架けたと記されていた。「あれを渡っていたら、どこに行ったのか…」。住職がまた遠くを見つめた。

話はさらに続き、「歩き遍路には(両手両足を同じ方向に出す)ナンバ歩きがいい」と身振り手振りで教えてくれた。とはいえ、明日があるということで部屋に入った。時計を観ると、まだ7時過ぎである。だが禅僧の朝は早い。あす6時半のお勤めのことを思うと、頃合いということであろう。

早く目覚めたので、建物を出ると薄暗い。昨日の冷雨と打って変わり、少し暖かい。鳥もさえずっている。ピピピ。そしてガァガァ。1種類だけでなく、様々な重なりで。ここは都会ではない。深山幽谷の地にいることを改めて実感する。
食事はおかゆと、野菜炒め、煮干しと梅干しと質素な精進料理である。「たくわんは残しておくように」と言われた。たくわん以外を腹に収めると、みな器をお茶で満たし始めた。たくわんをスポンジのようにして、洗うのだ。むやみに水を使わないという禅宗の教えだ。高野山の修行もそうだと聞いていたが、実践するのは初めてであった。

山の天気は変わりやすいとはよく言った。外に出ると激しい雨である。冷気も戻っている。今度は軽トラで遍路小屋に案内された。遍路小屋というぐらいなので、遍路道にある。81番の白峯寺から82番根香寺に続く細道は、どちらも先は木々に覆われている。車など入れない。そんな難所だからこそ、一帯の遍路道は、昔の姿をとどめているとされ、国史跡になっている。雨の中、説明を聞いていると、雪山に行くような重装備で固めたお遍路さんが、我々には目もくれないで根香寺道を突き進んでいった。
そんな古道に住職が建てた遍路小屋である。少し込み入った話になる。ここは道場からすぐの土地。学校の先輩から、「買ってくれないか」という話があった。というのも、小屋が建つ少し開けた辺りにはかつて家族が住んでいた。だが、不幸な亡くなり方をしたという。あげく家が火事で全焼。そして先の申し出である。それでも住職は購入し、お遍路さんのための「シェルター」を作った。無料のハーブティーも飲めるようにして、道場の若者による接待もある。要望もあり、近くに女性用の小屋も作った。供養のための仏さんも安置している。今ではお遍路さんに欠かせないオアシスになっている。

風も強くなってきた。こんなときにこそ、遍路小屋はありがたい。中は広くないが、2階もあって5人ぐらいは横になれそうである。壁には遍路札がギッシリ。ノートにはお礼の言葉が尽きない。

「お賽銭箱を置いてるんです。でもお金を持っていく人もいるんですけどね」

住職はそれも仕方ないというお顔をされていた。裏には「どうしても必要な時はお大師さんに感謝してお使いください」とある。別のお遍路が赤字で上書きして「もらっていいというものではありません」ともあった。車ではたどり着けない遍路小屋。
 
「歩きでないとわからないこともあるんです」

人への感謝のグラデーションが変わってくるということか。禅僧の語るお遍路は奥が深い。