ここにも地獄があった(2022年8月・石川県能登半島)

ヒッチハイクというのは、もう死語なのだろうか。

高校時代、青春18切符を利用して大阪から北陸まで旅をした。
お金がないから道路で、手を挙げてヒッチハイク。
止まったのは、当時人気の青いHondaの「シビック」。
後部座席には、おもちゃのガチャガチャが大量に積んであった。営業の途中だったのだろう。
運転手はサラリーマン風情のにいちゃん。
「免許取り立てだから、誰か乗ってくれて助かるわ」と不安げなことをいう。

透き通るような真っ青な空で、風が心地良い夏だった。
能登半島の西海岸には、松本清張の推理小説「ゼロの焦点」で有名な「ヤセの断崖」がある。
リバイバル映画だが、2009年に広末涼子主演で上映されている。
主題歌は中島みゆきの「愛だけを残せ」ですな。
30m以上の断崖は、日本海に向かって垂直に落ちている。
自殺の名所としても知られる。
にいちゃんは勝手な想像をしたのか「きみら、家出とかではないよな」と聞いてくる。
「それよりしっかり運転してよ、初心者」と胸中思いながら、目的地まで送っていただいた。

おぼろげな記憶をたどりながら、能登半島を北上して志賀町の旅館に着いた。
しばらくお寺のことが出てこないが、お許しあれ。

歩いてすぐに美しい海岸がある。
朝イチは静かでいい。
すぐに長く続くベンチが嫌でも目に入ってくる。

1987年に作られ、460mもあるという。世界一でギネスにも載ったというから、自慢の観光資源なのだろう。
だがこの果てしなく続くベンチに座るのは我一人である。
席が埋まることはあるのか?

この増穂浦海岸では、薄桃色をしたキレイな貝が取れる。
薄くて壊れやすい1、2cmの小さな二枚貝。
海流や潮の満ち引きの条件が重なって、晩秋から春にかけてしか出会えないという。
貴重な貝で、これも付近のお土産として知られていたという。
ところが、海岸線を改修したことでこの桜貝を見かけなくなっているという。
よかれと思ってしたことが、少ない観光遺産を浸食してしまったか。
部屋には、めっきり貴重になったという桜貝がインテリアで置かれていた。

ぱりっとしたお召し物をしたおかみから声をかけられた。代替わりして元おかみという。

「この輪島塗のお膳、よかったらいらないかしら」
4本の足が付いた立派な宗和膳。使ったことはなかったが、
うちは座ってご飯を食べるので、「ちょうどよい」ともらい受けた。

風光明媚なこの地も、どこの田舎と同じく過疎とは無縁でない。
2007年に起きた能登半島地震の影響があるという。
先の「ヤセの断崖」も崩落して、今は形が変わっているという。
志賀町も震度6の揺れで、多くの家屋が被災した。
それから、まちはまだ立ち直ってはいないと嘆く。

「少しずつ、宿のものも処分しようと思って…」

みなまで聞かなかったが、客足もにぶっているのだろうか。

「漆器だから使った後は、新聞紙で拭くのが一番いいのよ」

お膳は高価なものではないそうだが、大事に使われていたようである。
上品な塗りが印象的で、赤と黒のものをいただいた。
今でも丁寧に使わせてもらっている。

翌朝、宿からさらに北上すると、輪島市の門前町に至る。
阿岸本誓寺という浄土真宗大谷派の寺を訪れた。
寺のことは、五木寛之の「百寺巡礼」で知った。
目を奪われるのは、豪壮な茅葺き屋根。
金色の絨毯を敷いたような屋根は、頂上までは22mの高さがあるという。
五木は「ずっしりと圧倒的な量感で迫ってくるのだが、茅という素材が素朴なせいか、
建物や周囲の空気をふんわりと包み込むような、柔らかさがある」と記している。
能登地方最大最古の真宗寺院という。
江戸時代にはお公家さんの二条家から娘をもらい受けたというから、
かつて門徒の拠点として栄えたのであろう。

「かつて」というのは、今は巨大な屋根以外、当時をしのぶ面影がない。
広い境内には雑草が生い茂る。本堂の石段にまで浸食している。
背の高い白百合も涼しげに風に揺れていた。

檀家さんの集まりがない限りは、本堂も開けていないらしい。
昔の写真を見ると、江戸時代に葺き替えられた屋根には、無軌道に草木が生えていた。
地元の人は「昔は北前船の旦那衆が、気前よく修繕費を出していたが今はそうもいかない」とこぼす。
クラウドファンディングで1800万円を集め、ようやく葺き替えたそうだ。
県や自治体の補助もあったが、総額は1億円にもなったという。

30~40年に一度は葺き替える必要があるそうだが、檀家離れも進む世で次回はいかに…。
ここにも過疎の足音が聞こえる。

門前町の門前とは、曹洞宗の総持寺祖院の門前のことである。
こちらは真新しい山門が出迎え、観光客とおぼしき姿がみえる。

祖院とは横浜市鶴見にある曹洞宗大本山総持寺のオリジンを意味する。
1321年、道元とともに曹洞宗で両祖とされる瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)により開かれた。
曹洞宗といえば、道元が開いた福井の永平寺になるが、祖院と深い関係がある。

宗祖道元死後の永平寺のことである。
山内では道元の厳しい禅を純粋に信奉する保守派と、
「修行だけでなく、民衆に寄り添おう」と現状も見すえた改革派が対立した。
当時、現世利益を肯定した密教では、民衆が求める加持祈祷を行っていた。
道元も寺以外のところでは、祈祷など現世的なものを否定したわけではなかったという。
だが、道元亡き後の原理主義者は、「禅以外は邪道」とはねつけた。
改革派は追い出されて、北にある金沢近くの大乗寺に移った。
(この争いは「永平寺三代相論」といわれるが、実際のところは明らかにされていない)
1312年、瑩山らは祖院の前身となる永光寺を寄進され、さらに北へ。
場所は能登半島の付け根の羽咋市(はくいし)にあたる。
そして1321年、祖院はようやく今の土地に居を定めた。

開祖瑩山らは祖院で、武士や商人の現世の望みを叶えるため、加持祈祷を行った。
でも、そもそも禅宗でなぜ密教の加持祈祷なの?
詳しくたどれば合点がいく。
瑩山は比叡山で天台を学び、和歌山で臨済の高僧心地覚心にも教えを請うたとされる。
この心地覚心も、高野山で真言密教を修するなど、密教の影響を強く受けていたという。
当時、禅はまだ主流ではなく、専門的教義として広めるには時期尚早だったといえる。
道元より先の栄西もそこのところは理解して、天台や真言との兼学で禅を広めようとした。
当時の禅僧にとり天台や真言との兼学が珍しくなかった。
そもそも道元のもとに集ったのは、日本達磨宗の門下が多い。
聞き慣れないが、平安末期の能忍が、師匠なしで大悟したという禅宗の一派。
彼らは禅を学んでいたが、天台を修していた者が多かったという。
(近年「日本達磨宗の展開は禅を語る上で再評価されている」とwikiにはあった)
昔の教科書は、禅や念仏を奉じる鎌倉新仏教は一気に仏教界を変えたと記述するが、事実とはほど遠い。
実際、道元は京都を追われ、そこから自らの意志ではあれ越前の永平寺に移っている。
新仏教は、既存仏教に気を遣いながら、なんとか受け入れられてきた。
永平寺と袂を分けた改革派は現実主義者だったといえる。

その瑩山は徳島などにも行脚して禅を広めたといわれる。
こんにち曹洞宗が、14000を超える、伝統仏教随一の寺院数を誇るのは瑩山らの活動によるところが大きい。
女人救済にも積極的で、武士の妻らの寄進が多かったという。
当時、まだまだ伝統仏教には、女人成仏を認めない考えがあった。

そして瑩山らの総持寺は、孤高を保つ永平寺にも寄付を惜しまなかった。

そんな総持寺が1898年の火事で全焼。1911年、ついに横浜移転を決断した。
これが今日の総持寺。門前町の総持寺は祖院と呼ばれるようになった。
今考えると、好判断だった。
北前船の旦那衆が下降線をたどる中、関東の新興商人の寄付が新たに増えたのだという。
今度は総持寺も祖院を支えている。

多少説明がくどくなった。
祖院は、明治からの度重なる改修もあり、古さは感じない。
建物は重々しさがなく、軽妙な雰囲気を醸している。
禅宗なのでこれといって見どころはないが、退屈な空間ではない。
せっかく曹洞宗の裏本山に来たのだから、座禅でも…と思ったが時間外であった。

面白い伝説がある。
山門を出てすぐに峨山道と呼ばれる道がある。
総持寺から前身の永光寺をつなぐ52kmの山道。
瑩山から総持寺を受け継いだ峨山は、永光寺の住職も兼ねていた。
そのため、毎朝未明に永光寺で勤行をすませ、52kmの道をたどり、総持寺の読経に参じたという。
「んなアホな」という話ではあるが、その伝説は今に伝えられている。

2015年から「峨山道トレイルラン」という大会が始まった。
募集パンフには、クラシカルコースは73kmとある。
52kmからさらに伸びてるやないか!
最大標高は400m弱と高くなさそうだが、累積標高差約3000m、未舗装路率70%ってどういうことよ。
それでも19年の記録では完走率は意外に高くて、73%という。
ただ最終完走者で15時間以上もかかっている。
スポーツというより、苦行というほかない。
アスリートに、峨山の魂が受け継がれている。

ちなみに比叡山の千日回峰行の「京都大廻り」は84kmとも。
走りはしないが、四国遍路は1400km以上になる。

仏道を究めるものは、並外れた体力も求められるということか…