空石が読む沖縄戦と生死の分かれ目(2016年1月)

きのう佐野真一の「僕の村は戦場だった」を読んだ。
佐野は結構硬派なジャーナリストで、好きでたまに読む。
今回はちょいと空回りしていたが、テーマは重い。
(空回りというのは、筆が回りすぎていたということ)

彼が訴えたかったのは1つだけ。
沖縄戦では、中日がキャンプを張る読谷というところから、上陸が行われた。
そのときに、勝手に軍属にされた住民らが集団自決を計った。

その前に、渡嘉敷島という本島からすぐのところに、1945年3月に上陸している。
そこでも同様に集団自決が行われている。

そこで生き残った金城氏がクローズアップされている。
彼は大学教授などをへて、牧師になっている。
仏教でなく、キリスト教に入信したことは興味深い。
ユタ信仰など根強い沖縄で、戦後にキリスト教徒や創価学会が信者を拡大したことは興味深い。

それはさておき、この金城氏は、「鬼畜米兵は日本人を捕らえたら、惨殺する」という戦前教育から、自ら母親や弟らを石で撲殺したという凄惨な過去を持つ。
そこから奇跡的に生き延び、牧師になったというのがこの本の骨子。

そんな歴史を本土は知っているのだろうか?
これが佐野氏の叫びである。

さきの読谷村で、アメリカの上陸に対し、沖縄の住民はガマと呼ばれる洞窟で抵抗を試みた。
そこで生死が分かれる。
あるガマでは、渡嘉敷島と同様「鬼畜米兵思想」で捕まったら、何をされるかわからんと、
選んだのが集団自決。
もう一方のガマではハワイで教育を受けた人間がいて、「生きてこそなんぼ」と投降し、
一命を取り留めた。

こんな過酷な選択を沖縄は強いられたのである。
だから「戦争反対」かというとそうではなく、「だから弱いと、オスプレイもってこられたり
するから、本当に強い軍隊を作る必要がある」という意見もあると言うから、沖縄は複雑だ。

ただ、米兵がいる限り、いつなんどきあのときの悲惨がよみがえるかもという思いはある。
オレも詳しくは知らなかったが、沖縄には「靖国に英霊として祀ってくれるな」という人もいるらしい。
これが複雑なのだが、日本は戦争に巻き込まれた沖縄の民を勝手に軍属として祀っている。
声高に文句が出ないのは、簡単な話で補償がでているから。

ただ本音は「お前らが勝手に巻き込んどいて、一緒に戦争したって、ふざけるな!」というものだろう。
先の話に戻ると、沖縄は凄惨な肉親殺しをさせられたわけである。
しかも、それを指示したクソと一緒に靖国に祀られたくない、というのが心情であろう。

これって、福島の原発補償と変わらんな。
「いいんですか、反対しても。勝手ですけど、じゃあ、補償しませんよ」
人の足下見るとはこのこと。

この本自体は、佐野にしてはちんけだと思ったが、テーマ自体には重みはある。
毎日1面で、沖縄タイムスと琉球新報が報じる基地反対の声は残念ながら、
本土には1ミリもとどいていない。

つらつら述べたが、戦後を語る前に戦争を語ることも大事だと思う。
集団自決とか、わかった上で安保法案を語ったほうがいい。

ではの。

空石