戦争。沖縄辺野古の基地問題。(2016年3月)

円瓢よ

これだけ書いてくれたら、貸しがいがあるというものよ。
でも戦中派ってすごいやろ。

もちろん、ああして語れるのは彼らが成功したからというのはあるだろう。
ただ、死地をさまよった恐怖体験は、おそらく平和な世に悪夢以外の何ものでもなく、
それを振り払うために、死にものぐるいで働いたんだろな。
「すごい仕事されましたな」と言われて、礼でも言ったであろうが、
心の内では俺らの高校教師だった安達のように「わしは戦場で一度死んどんねん」と、
考えていたことを考えると、この人らには勝てんと思う。

戦争反対っていうのは、経験していない我らからすれば「行きたくないから」ぐらいしか
想像がつかんが、「戦争ってこんな風になるぞ」と知っている人間は、リアリティが違うわな。

前に、沖縄辺野古のことに少し触れたが、沖縄人が語るのは生活としての「基地問題」。
もちろん「戦争はダメ」とかあるけど、それ以前に「自分の生活を誰が補償してくれんの」
という切実なリアリティ。
一方で本土が語る基地問題は、「戦争アカン」だから「基地も沖縄のためアカン」という
いわば感傷的なナロードニキ運動。

じゃあ、基地がなくなったとき沖縄の人はどうやって食っていくの?
そこまで考えたことあるの?

そこが、沖縄の反対運動は地代つり上げのためというナイーブなところだというところにつながる。
反対してくれてるのはうれしいけど、わしらと考えていることは全く違うと。
その前に、「本土の軍人らがわしらに何してくれたのか知っとるの?」という困惑というか、反発。

円瓢が書いていたように、沖縄は死者と生きている島だとは思ったわ。
内田樹も書いておったが、「これまで死者をそのままほっといた文明というのはなかった」と。
何かを殺したときは、呪いを畏れ、そのため祈る。
簡単に言えば命を粗末に扱わない。
沖縄の御嶽は、それを今も現わす。
こんな文化は、奥深いように思えるわ。
仏教の神仏混淆も、もっと深いところで考えないといけないんだろうね。

考えたら、人間は命を殺さないと、自らが生きていけない。
戦争こそしないけど、いじめや貧困問題なども、程度の差はあれ、人間の性やと思う。
だから、いじめやパワハラをしてしまう人間は、絶対戦争をしてしまうメンタリティーを有すると思う。
これは、人間ならみんな起こりうる。
清志郞が「東電に入ろう(倒電に廃炉)」とシャウトして、放送禁止になったときにそれを無視して、
福島の人災を起こした国なんだから。

NHKもあの大震災は、そろそろ切り離した方がいいぜよ。
津波は自然災害だけど、原発はモロ人災やから。
一緒には考えたらアカンで。

円瓢が、放射能の人体への影響のことを指摘したのも、納得。
言いにくいことだけど、「とりあえずやっとく」みたいなことで、無駄に税金使われたら、
この国が沈没するで。
まずは原発をどうするか、明確に国として決めること。
つぶすには、プランを提示して徹底的につぶす(実はつぶせないのだから、
ここが言えないのだろうが)。

「まず●%」とかはいいから、原発と共存するのか否かをきっぱり決める。
残すなら、「その周辺は税金ゼロでっせ」とか、きっちりメリットを提示してやる。
国民がわかりやすい形でね。
アメリカの大統領選やってる場合じゃないですよ。

今回は大阪で相撲を見たのだが、これが刺激的。
まず初日前日に行われる土俵を清める土俵祭りしかりだが、横綱の四股など全部神事。
あれは豊津国のためにやらねばならないことなのよ。
それをモンゴル人がやっているのは苦笑いだがの。

それはさておき、「葉隠」ではないが、「カッコよく負ける」の優位性については、相撲にもある。
だから立ち合いで変化(突っ込まず、横に逃げる)すると、「相撲道に反する」という言われ方をする。
だから親方は負けても「いい相撲だった」とほめることがある。
これを綱取りを目指す琴奨菊の佐渡ケ嶽親方が言うのだから驚く。
これが武道なんやな。
この潔さには、ほれぼれしたわ。

ではの

空石