「死を見るから生が見れる」は仏教のいろは;仏教は過激思想だ(2016年3月)

よう、空石!
円瓢ですわ

お主こそ気合の入った長文で楽しく読ませてもろたわ。ええよな、本の貸し借り
から生まれる感想文で刺激し合える交流ってのも。これも仏縁。恐 らくは高校
からではなく、遥か昔の前世からなのかも知れぬわ。俺の方もいま通勤時間など
利用して、手持ちの文庫を総ざらい読書中なので、また 会うたときに貸します
わ。佐高信とかまじ懐かしくて震えるわ。

それにつけても戦中派やな。凄まじい。彼らには勝てないし、勝つ必要もない
わ。俺らのちの世代に必要なのは、彼らの体験をしっかりと聞き、彼らがそこ
から得た絞り出すようなメッセージをきちんと捉えること。そして、それを我ら
の時代の文脈にて活かすことやと思う。死者に向き合う一 つの基本姿勢やろうな。

内田樹の言うことはもっともやな。死者を蔑ろにして生者が活かせるか。死を見
るから生が見れるとは仏教のいろはやないけ。生物としての死を吟味する前に
さっさと英霊にしてしまうのは国家神道の浅はかさやと思う。本来の神道はそう
ではないはず。国家神道となら、仏教は神仏混交してなかったと俺は推察するのや
が、どうか。

勘違いしたらあかんのは、仏教は死を適当に扱った虚無的思想などでは微塵もな
いってことや。死を直視することでそれをタブー視する古代常識を転覆させた
過激思想や。故に、向き合い、きちんと火葬をし、仏陀の骨はそこから「聖遺
物」として信仰の対象とされた。俺が教えてもらった Lancaster博士は「仏教は
聖遺物カルトとして始まった」とよう言うてたが、首肯する。

人間の、いや、「有情」の性としての生命はく奪。これは避けられぬ原罪や。故
にこそ、無用な殺生は禁じるのやが、それでも起こる aggressionがいじめを生
み破壊を生み戦争を生む。。その理由を仏教(部派)は「阿頼耶識の浄化に失敗してい
る」と見た。それが普通の我々、つまりは三毒に病んだ人間だと。が、「それ
が治る」とも見た。添付参照。

凄い実践宗教やが、最初から生死を相手にしたので、死者もずっと傍におった。
(原始宗教的に)恐れるのではなく、むしろ慈しむ対象として死者を見た。そ
して儀礼が発達し今に至る。

死者の声に耳を傾けぬとは、生きる声にも鈍感な訳で、「精進」に非ず。
俺らは不完全ながらも、有限の時を軽安に精進したいものよ。