「未来の住職塾」感想その2; 情報リテラシーのが地に落ちたネット民衆 (2016年12月)

空石よ、今日は首都圏はぽかぽか陽気やったわ

井出さんに会ってきたとのこと。お主のさすがの行動力やな。とてもためになる
報告であった。多謝。

HPにおいて住職に望むのは「地域の自慢」か。半分当たっていて半分外れている
と俺は思うな。当たっている部分は「寺も地域の一部」であるという認識。そこ
はその通り。今後、寺がきちんと超高齢化した日本の中で機能しようと思えば、
「地域包括ケア」の枠組みの中で作用する必要がある。となると、地域医療、地
域福祉、つまりは「地域の一部」である所作をせねばなるまいて。

そして外れている点は「地域に甘えるな、寺だけで自立する気概を」という点
と、「悪いけど、地域とそこまで寺は密着してないで」という点や。今まで地域
の一部と考えたこともないくせに、急に仲良くできるかね?例えばうちの家の前
にあるお東のお寺。地域のイベントになくてはならぬ風情など皆無。むし
ろ、うちの「燃える大家」の方がよっぽど地域に密着し、入居者である俺
らを盛んに誘い、地域のことを考えておる。

寺が倒れそうになっても、地域は救ってくれないと思うがな。いまの寺を支えて
いる檀家連中は地域とは関係のない相撲部屋の年寄株を持つ連中。そして本山の
意向。倒れそうになっても、本山が面倒をみることはあっても、地域が署名活動
はしてくれんわな。甘えるな、と。

「ダメな寺は淘汰される」は総論として賛成する。ただ、1点付け加えるとすれ
ば、俺らの『旦那プラン』にあるような「文化機構」として寺の周囲を保全する
感覚がないと、寺の救済は自転車操業になり、遂には寺自体が駆逐される気が強
くするね。ビジネス感覚にフィットする1対1商業機構ではないという点の精査が
必要や。

むろん、寺自体に自律の意識は必要で、そこで淘汰する必要はあると思うがな。
でも、あまりに過酷な環境の変化には人は戸惑うのみならず感覚をシャットダウ
ンしてしまう。寺の連中にまず認識させる努力は、本山sがすべきではないかと
思うが。それからの踏み絵でも遅くはない。

ライターとしての協力はまじどんとこいやな。そこは密に連絡をとっておけばよ
いのではないか。

お主の自己分析としての「寺のビジネス化は何か違うと思う」という感覚にも同
意する。やはり『旦那ビジネスモデル』の重要性。ちょうど、医療はサービスだ
という認識が今では常識となってるが、それでも完全な市場経済では動かないと
いう認識と類似する。日本の医療は部分的には資本主義やが、全体として見ると
社会主義的な計画統制経済市場やから。

それを完全に民間経営化してもええが、アメリカ型の医療になってしまう。金を
出せば超一流の医療が受けられるが、貧乏階級は手当すらしてもらえぬ、とい
う、国民皆保険制度から遠く離れた市場になってしまう。これに日本人が耐えら
れないのは火を見るよりも明らかや。寺業界にもちょっと似たようなところがある。

だが、医療と寺では大きな違いあり。医療提供者にとっての厚労省のような
「ビッグボス(監督省庁)」が寺業界にはなかったので、完全に時代の流れから
取り残された恐竜思考しかできてない。時代のニーズを誰も命令してくれなかっ
た。よって、どう足掻いても、ホモサピエンスを満足させられないと思う。そこ
の冷たい現実を井出さんが指摘しているとすると、「確かにね、恐竜は体温上げ
られませんわな」と俺は応じるわ。

故にこそ寺はやはり、「ビジネス的」な中小企業的感覚と言おうか、それは必死
で身に着けるしかないとも思うね。やはりこの世の中が厳しい「市場経済」化し
ている以上、そこで傷んだ人間を勇気づける寺の人間が「市場経済、って、
はぁ?」では困る。病気を知らん医者は頼りない。ブッダは当時も最高の医者
やった。彼のあだ名は「医王」であった。やはり「小規模事業所」としての意識
を持ってもらう必要は断じてある。

が、それを井出さんが言う必要があるってのは日本仏教界が背負わせ過ぎやな。
そこは、本山が言わなあかん。日本仏教界が言わなあかん大ミッションや。

井出氏も松本僧侶もきちんと会合せんといかんな。日本の精神性の大きな一部を
握る寺業界の中枢へ食い込んでいる意識は、確かに年々強くなる。特に、浄土真
宗本願寺派の中枢に妙な縁で入り込んできた俺やが、これは既存establishment
の中のliberal派に属する。一方で、そこから外れてfree agentとして寺を改革
したいと考える若い僧侶のトレンドの中枢にも、空石の今回の切り込みがあ
り、(若くはないが)清老師のような人との出会いがあり、照空くんらがおった
りする。

そして、それらは決して俺らの10年前の構想を抜いているものではないというこ
ともまた事実である。ただ、具体的なaction plansを俺らが語れるようになって
いる(その分、若干計画にむちゃくちゃぶりが薄まっているかも知れないが)の
は、周辺業界事情がよく分かってきたということでもあるのやろうかね。サイの
ように進むのみ。

DeNAの問題は本当にひどいな。お主のいうように、1) IT事業主側の倫理観の弱
体化; 2) 国民個人の倫理観のたがの外れ方と安易な銭もうけ主義の蔓延;
3) 情報を受け取る側のリテラシーの驚愕の弱体化・批判精神の激減は目に余
る。受験体制と受験勉強の鵜呑み体質が、ここら辺にきてじわじわと効いてきて
いると考える俺はネガティブ過ぎるかね。自分の頭でものを考えないという態度
は沸点に達しておる。

例えば、小学生のYoutuberへの信頼度の高さは異常やで。俺はさすがに科学者の
息子としてセガレsには批判的なものの考え方を育成したいと思うので、彼らが
好きなYoutuberのつまらん実験からも、教育的効果を探るようにして問いを発し
てはおるがな。彼らが好きな価値を否定はせんように注意するが、例えばN=1の
実験結果を信じてええものか、という対話には持ち込む。そういうのもないと、
「見たものが真実」「聞いたことが真実」とかえらい状態になりよるで。

好きは好きでええ。でも、それを「真実」と見るには論理的な考察をスキップし
てはならぬ、とな。つくづく思うが、日本でよく聞く「常識やんけ、そんなこ
と!(考えるまでもない!)」という軽口が、ほとんど叩けなくなるというだけ
でも、文化的な多様性がfact of lifeな米国西海岸などへの留学が、特に今後の
日本人エリート育成のためにはmustに感じられるのだがな、俺には。あちらで
は、「(常識化してる)事柄を知らない」ことよりも、「常識があると思って疑わない」
態度こそが批判されるので。

そして、既存の大型メディア企業の「食われ具合」はまずいな非常に。そして事
実でもあるわな。社会から、いまのメディアが完全に失った「調査報道」の弱さ
を突かれている気がする。「情報の信ぴょう性」を屁とも思っていない受け手を
作るには、送り手が必要ゆえに。物凄い調査力をもっていれば、「やっぱあの新
聞社が書くことは信頼できる、ネットはあかんで」となるのだが、どの新聞社も
同じレベルで、ネットと大して変わらん。

Youtuberの兄ちゃんらは10分番組を1日で5万円もかけず、1人で作るが、NHKは同
じことを10日かけて、10人で、1000万円かけて作る。それはその通りで、前者
ばっかり毎日見てたら阿呆になるのではという危惧も分かる。が、その情報の信
頼度が同じと認知されている現実がある。そして、あの、俺が木更津で受けた
やっつけ取材で「今年の流行リストのカウントダウン」を「エビデンス」として
ぶら下げるTV局の態度を見ると、はじめしゃちょー(有名なYoutuber)と変わら
んやんけ、4人もTVクルーいてたけど、と思う俺はあながち間違ってはおらん。

そして、記事や報告のoriginalityに対するrespectが皆無というやばい現実。

「常識っ『ぽい』感じを知っていればええ」

という意見のやばさ!このstatementには5か所の許されぬ悪があるが、何人が気
づくのか?まず「常識」などない。あまりに定義が不鮮明ゆえ存在せぬ。「っぽ
い」も不明瞭で判断の基準があまりに主観的。「感じ」も同様。主観に左右され
すぎ。次の「知っている」には吟味が入らぬ。「耳に入る」ということなのか?
そして、それらが「ええ」はずがないのや。こんな右向け右の状況で、泥水みた
いな情報ばっかりネットから受容してそれを信じて、情報リテラシーもへったく
れもないわな。

で、納め地獄は12/31に決めうちやな、どうやら。妙な要望やが、(最近よく老
化現象を感じるため)文殊師利菩薩、虚空蔵菩薩、大威徳明王(文殊の教令
身)、そして激しいチベット密教にまつわるものの辺りで何か関西で数珠つなぎ
ができれば大変嬉しいのやが。

では!