「笑い仏」プロジェクトの「行脚プラン」を検討する(2012年4月)

よう、空石!長之坊君!
モラ坊円瓢です。

倉吉までの遠征お疲れさん。そして多謝!空石の行動力にはいつも驚かされるが、これも全て所縁のなすもの。有り難いことです。

竜門さんはいぶし銀やな。倉吉の行政系HPも閲覧したが、かなりの仏師の様子。「全権委任」とはこれまた豪儀な。意義に感じて、我らも張り切って精進せねばな。「落ち着くところに落ち着くだろう」というのは、凄みのある言葉やと思うわ。さすが仏師。

俺もいま、東北にいる仲良しの仏教オタクにメディア系を通じて打診している。彼の周囲にはメディア力を用いて東北復興を唱える若手連中の人脈があるので、その辺りがもし動けそうならば、何か「ローカル住民からのアイデア」を出してもらおうと思うてな。少し待とうと思う。

行脚の案はとてもよいと思う。ただ、どうやって周遊させるか。昔の「聖」よろしく背中に担いで…なら、具体的過ぎてカンパも集まるし、人気も出るやろうけど、さすがに俺らが張り付く訳にもいかん。どういう風に、「がれき仏」さんに随行するか…。宅急便で軽やかにというのも一案やが。

結縁するというのは一理あるわな。写真を数珠繋ぎってのも納まりのよいアイデアや。ただ、願わくはやはり、僧侶などが横にいて「聖」的に行脚してくれるってのやな。それを、方々で「お迎えする」ってのにすると、「ハザマかんぺーマラソン」と同じ雰囲気を作れる。それが難しいとなると、「回覧板」的な周遊のさせ方になるやろうが、その場合の斬新性ってのがぴんと来る人と来ない人で分かれるやろう。この辺り、メディア受けも考えて、どうすべきかね。

あともう1つは、「がれき」の与える印象。これも今、東北の連中にフィードバックを求めている。人によっては、それを失礼に感じる向きもあるやも知れん。ことがことだけに、繊細に行った方がええからな。「津波で流された瓦礫で作った」だったら説得力がストレートやが、「別の地で瓦礫で作ったものを、瓦礫が片付き始めた東北へ持ち寄る」というのが、嫌味に思われないか、どうか。feedbackいかんでは、「瓦礫仏」の名称も再考の余地ありやも。

いずれにせよ、せっかくの竜門さんのご好意、つつましくMONKが乗せて東北までお渡ししたいよな。