「法然と親鸞」展で感じた「布教メディア」の違い(2011年12月)

空石よ!

素晴らしいな、お主の行動力は。空石のような、仏道を歩みながら各方面で新しい風を起こす人間と言うのはいそうで中々いないもの。そこに要所要所で刺激を与えられる位置にいるということに誇りを感じる今日この頃。恐らく、前世でも何らかの深い因縁があるやも知れんな、俺らは。

年末にそもそも帰阪するかどうかがちょっと怪しくなってきた感じ。詳しくはまたメールするわな、諸事情を。逆に、空石が気まぐれにこちらに来ることがありそうなら、是非お声を。

いずれにせよ、12/20のGate、色々な点で我らと因縁のあるこの映画の上映会、大成功することを祈念しておる。その報告に関しては、MONKフォーラムのサイトでも大々的に出したいので、是非とも写真やメモなどをデジタル化しておいてくれ。宜しく頼む。

あ、そうそう。「法然と親鸞」行って来たで、チケットくれた朝日新聞の仲良しと一緒に。一言で言うと、やはり、前回の「空海と密教美術」と比較して仏像が圧倒的に少なく、いかに浄土教の『カリスマ祖師の言行録そのもの』が庶民を牽引したのかがよく分かる。とにかく多かったのが、「絵巻物」による布教や。これはたまげた。最高の「メディア」として機能したようや、当時は。あの末法の世に、絢爛豪華な仏像を担いで説いても、恐らく飢餓で苦しむ平民たちには福音はとどかなかったことやろうな。

もう1つ気付いたのは、高齢者の多さ!前回の「空海」では、それこそ冷やかしのような客やら仏「像」にのみ興味を持っていそうな若者も多かった。が、今回は高齢者まじ真剣。来客人数は前回より少ないのに混雑する理由は、老人特有の「着膨れ」と「荷物を預けない性向」で1人が2人分の容量を持っていることの証左と理解した。そして、一々の巻物の前で過ごす時間が多い!冗談抜きで、「往生」が近い人々の危機感やろう。

でも、本当に、あの鎌倉初期の平民が抱いた「末法」というジリジリ来るような絶望感と、今のお年寄りが、今回の震災や原発事故さらに世界金融恐慌のくすぶりを目にして感じているかも知れない「どうなってしまうのか…」というジリジリ感は、実はとても似ている心理状態なのかしら、と勘ぐってるのや、俺は。それが、より切実な「往生」の問題を前に、ぶつぶつと、絵巻や古文書を読むという行動に結びついたのかも知れない。そういう点で、時宜を得た展覧だったのかも知れないわな。

それでは!