京都で二条城は知らない人はいないであろうが、そのすぐ南にある神泉苑はいかがか?
私もこれまで訪れたことはなかった。
二条城は毎度の外国人観光客でにぎわっているが、
一本筋を超えると、喧噪と無縁の場所となる。
地元民であろう妙齢のおばさまがのたのた歩く、生活感漂う京都となる。
さて、神泉苑とはもとは天皇の離宮であった。
平安京創建当時からの史跡というから、1200年以上の歴史を持つ。
ただし、元の大きさではない。
徳川の世に、二条城がこの神泉苑の広大な土地をつぶして建てられた。
東西220メートル、南北440メートルあった離宮が、
今では東西に60メートル、南北に100メートルに縮小。
天皇家の力が衰えていくとともに、東寺真言宗の管轄になってしまった。
しかし、ここには他にはない面白い社がある。
一見、普通の社に見える。恵方社という。
パンフレットには「日本唯一歳徳神」とある。
福徳を授けてくれる神様とされ、陰陽道ではこの神様がいる方角を恵方という。
ではなにがスゴイかって?
恵方は毎年変わることは、みなさんもご存じのことであろう。
それは恵方巻きを食べるとき、「この方角に向かって」とかやるのでわかるはず。
この社の台座をよく御覧あれ。
なんと、これがグルリと回転するようになっているのである!
つまり、参拝者が何も考えずに手を合わせても、知らずして恵方を向いて、
拝める仕組みになっているのである。
お手軽感は否めないが、なんともほほえましい社である。
ではいつ廻すのか?
今ではなく…大晦日ですよ!
夜10時過ぎの法要のあとに、何人かでえっさぽいさと、恵方に向けられるのである。
(正確には我々が恵方に拝むように、神様が向けられる)
ともかく、ここは歴史があるだけあって、この神泉苑はいろいろ飽きないんだわなぁ。
祇園祭の発祥となった御霊会もここで初めて行われた。
神聖な土地でもあったからである。
だが、歴史的に重要な舞台になったのは、824年であろう。
主人公は、かの空海。
そのとき、京は大干魃であった。
そこで淳和天皇は、東寺の空海と西寺の守敏(しゅびん)に降雨の祈祷を命じた。
話は様々だが、結果だけいえば、法力争いに空海が見事に勝利した。
それはそれでいいのだが、引き立て役の守敏はかわいそうである。
彼は空海のように唐には行っていないが、天皇のもとで着実に力をつけ、
東寺と並び立つ西寺のトップに抜てきされた。
それだけ実績のあるお坊さんなのだ。
それが、一説では自らが降雨祈祷に失敗したので、空海の邪魔をして、雨を降らせる龍王を
水甁に閉じ込めてしまったとか。
空海は「おかしい」と気づき、唯一守敏の法力を逃れていた善女龍王を引き寄せ、
見事に雨を降らせたという。完全に守敏は悪者にされてしまった。
(だいたい、水甁に入れられるのであれば、
とっくのとうちゃんに雨は降らせているはずだろうに)
(こちらで善女龍王が祀られている)
歴史は敗者に容赦しない。
神泉苑を下っていくと、羅生門あとの碑に出る。
そぐそばに、矢取地蔵のお堂がある。
これも2人に因縁がある。
空海に恨みを持った守敏は、羅生門で待ち伏せして、空海に矢を放った。
それをこの地蔵様が身代わりになり、難を逃れさせたというのである。
いい大人が、そんなことはいたしません!
ましてや、西寺のトップに上り詰めたお方。
矢取地蔵を西に進むと、当時西寺があった場所に着きます。
東寺に比べると、なにもない…。
今や近所の少年らが遊ぶ公園である。
ただ、歴史をひもとくと、西寺も東寺に劣らず重要な寺院であった。
東寺に空海が住したように、密教の中心地の役割を持っていた。
一方の西寺は、お坊さんを管理する僧綱所の役目を奈良の薬師寺から引き継いだ。
なので、奈良出身の俊敏の師匠、勤操に白羽の矢が立った。
だが、彼は歳もいっていたので、後事を弟子の守敏に託した。
そして、人生最大のハイライトを空海との法力対決に敗れ、忘れられていった。
もしくは、悪名だけが残ってしまった。
これは無念きわまりないであろう。
こんな恐ろしい話もある。
「今昔物語集」という平安時代の説話集がある。
そのなかに空海が登場する。
神泉苑での空海とは一変。
興福寺の僧・修円とまたも祈祷合戦である。
反目し合う2人の行動はエスカレートしていく。
原文にはこうある。
二人の僧都、極て中悪く成て、互に死々と呪詛しけり。
つまり、お互い「死ね!」と呪いをかけ合うのである。
ホンマにこの人らは、僧侶なんか…。
結末がこれまた凝っている。
空海は弟子に命じて、自分が死んだように葬式の支度をさせた。
弟子の報告で安心したのは、修円である。
「あ~やっと死におったか。これでしんどい祈祷もひとまずお休みじゃ」
と油断した瞬間をとらえ、空海がこん身の呪いをぶち込んだ。
修円はあえなく死去。不毛な法力合戦は、権謀術数の上幕を閉じた。
この言い伝えから、俊敏と修円を重ねるものもいる。
空海と俊敏はどんな僧侶だったのか?
実のところはわからないが、2人をつないだ縁はある。
俊敏の師匠は勤操と書いた。
実は、彼こそが真魚時代の青年空海の剃髪の師なのである。
空海の日本の師匠ということで、一目置かれたのであろう。
奈良・大安寺では毎年5月7日に勤操忌が執り行われる。
弟子は明暗が分かれた。東寺は今も栄え、西寺は碑を残すのみ…
そして、師はひそやかに人々の祈りを今も集めている。
●神泉苑
京都市中京区御池通神泉苑町東入ル門前町167
阪急・四条大宮から徒歩10分
☎075-821-1466
●西寺跡
京都市南区唐橋西寺町
JR京都線・西大路から徒歩8分