讃岐紀行㊤~空海から乃木将軍、そしてアイドルまで!?~(2018年8月・香川・金倉寺)

瀬戸内海には夏が似合う。
穏やかな水面がキラキラ輝いている。
うだるような猛暑の中、ガタゴトと電車に揺られて瀬戸大橋を久々に渡った。
10年前は、仕事でよくこの電車に乗っていた。
こんなキレイな風景だったんだなぁ。
齢を重ねたのか、心に余裕ができたのか…岡山から讃岐の国に入った。
西日本豪雨の影響がここ香川にもあり、川にかかっていた橋がひん曲がったそうで、JR本山から観音寺が不通である。
代替バスに乗る必要があるとのことなので、それならばと、前日入りして讃岐の寺をちょっくらお遍路しようと考えた。
多度津という駅で乗り換えて、土讃線で1駅行くと金蔵寺という無人駅に着く。
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そして、88カ所の76番札所の金倉寺に向かう。
変換ミスではない。
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お寺のHPによると、昔から地元では「金倉寺」と「金蔵寺」をあまり考えずに、使っていたようで、明治に入り、地名として「金蔵寺」が採用された。
JRもこちらを採用したようである。
地名ということでは正解だが、わかりやすさからいえば、「金倉寺」と統一した方がよかったかも。
ともかく、無人駅からスーツケースを引きずる轟音をうならせ、
灼熱の参拝路を歩いた。
5分がとてつもなく長く感じた。
汗を流しながら、金倉寺のだだっぴろい駐車場にたどり着いた。
少し甘えるか…。
境内でスーツケースを引きずるのも無粋と思い、駐車場の管理人室の扉を開けてみた。
すると、驚がくの光景が!
管理人の古老が、パイプイスに腰掛け、〝あぶり〟をやっていたのだ!
鋭く光る眼光で「なんか?」と聞かれ、後ずさりした。
「いやぁ、スーツケースを少しの間、預かっていただければ…」
「あぁ、ええよ。1時間ぐらいやろ」
なんのことはない。話せば親切な古老は、昼ご飯の野菜を電気コンロで焼いていたのである。それにしても、ヤクザ映画の菅原文太みたいに迫力あったんだよなぁ。
平身低頭で、スーツケースを預け、いざ境内へ。
ここ金倉寺は、88カ所として有名なのだが、
もう一つ、空海のおいで天台宗の密教を極めた円珍の生誕寺としても知られる。
この大師堂を見ていただきたい。
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これが尊像の並びである。
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なんとあの弘法大師が脇に置かれているのだ!
中央は智証大師の円珍。向かって右が伝教大師の最澄、同じく左が天台大師で、
右奥に弘法大師、左奥が神変大菩薩。
祖師が5対そろった88カ所唯一の配置だという。
まぁ、大師堂といっても智証大師も大師さまだし、最澄も伝教大師さんだもんね。
空海が脇でも間違いではない。
他の寺ではどかんと、中央にお祀りされているのだから、少しぐらいはご忍耐を…というところです。
でも、晩年仲違いした最澄と空海が隣り合っている鎮座するお堂とは、これはこれで趣深い。
金倉寺は天台宗である。
調べてみると、真言宗でない四国八十八カ所寺院は意外にあって、天台系がここを合わせて4つで、臨済宗が2つ、時宗、曹洞宗が1つずつである。
なぜそうなのかというと、よくあるのは開祖の時は真言宗だったが、のちに改宗したパターン。
しかし、金倉寺に限っては、円珍が唐から帰朝して、このお寺を開いたので、もとから天台宗だったといえる。
88カ所にあっても胸を張れる天台系なのである。
境内には、円珍作の薬師さんがおられる本堂に、訶利帝堂(かりてい)などがある。
訶利帝は鬼子母神とされ、女性の神様として、子受けや安産でご利益があるとされる。
ただ、目をひいたのは、青空に屹立する山伏の像である。
さっき、大師堂にもおられたので、神変大菩薩、いわゆる役行者さんかなと思い、近くに寄ってみると、これがなんと円珍さん。
「えっ、円珍さんってこんな形で拝まれているのか!」
だって、空海も行者風には造形化しないもん。
でも考えてみれば、円珍は山岳修行に勤しんだ行者である。
天台宗について少し説明すると、最澄の天台宗は円仁、円珍の密教スパイスを加え、発展したが、結局2つに別れてしまった。
延暦寺を本拠とした円仁の流れは山門派、三井寺に下った円珍の流れは寺門派となった。
寺門派は、山門派の円(法華教)、密、禅、戒の教えに加え、修験(道)を加えた。
この流れがのちの天台修験を統括する京都・聖護院の本山派につながっていく。
いわば、円珍は天台系修験の祖といえる。
だからこのお姿もありなのか。
それにしても、疑問が残る。ひょっとして、この寺は札所でありながら、
そもそも行者信仰もあるのかも…。
モヤモヤしながら、納経書に入った。
すると、あるではないか!
「法螺貝に興味がある方は、言ってください」との張り紙。
おそらく、88カ所巡りのお遍路さんは目もくれないだろうが、
見つけたからには聞いてみた。
寺守の老人が、重い腰を上げて、法螺貝を2つ持ってきてくれた。
「ご興味が?」
これぞチャンスと、円珍の行者像についてうかがった。
すると、田舎くさくもまろやかな香川弁で、打てば響くご回答!
「明治時代に廃仏毀釈があって、仏教と神道がわかれたが、昔は神様も一緒。
近くには石鎚山もあるし、修験道の中で神様も祀っていたから、不思議ではないと思うよ」
そんな内容だったと思う。ツボをおさえた回答だった。
さらに、もう一声と思ったときに、ご住職がご登場。
寺守さんにご用をことづけたので、問答が打ち切りとなった。
それはそれで仕方あるまい。
円珍が行者として信仰されていたことは、面白い発見であった。
そもそも天台宗は千日回峰行などの修験的要素も強いが、
それを改めて確認した形となった。
そして、残された法螺貝に目を落とすと…。
ん、6万円とか…値札がぶら下がっている。
これ、売り物だったのか。だから「興味ある人」と。
行者さんのための張り紙だったのね。
ある意味、今でも活きた修験道ではないか!
そうこうしていると、寺守さんが帰還。
お寺のことをさらにうかがっていると、「乃木将軍もここにおられた」という。
明治天皇が亡くなった日に、妻と殉死した乃木希典。明治の軍人さん。
彼は1898年に第十一師団長として、善通寺に滞在している。
その宿舎になったのが、この金倉寺。ここから、彼は馬で善通寺まで通ったのだという。
「乃木さんの遺品がいろいろこのお寺にはあって、お祭りのときに公開されンのよ」
それがこれであろう。
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「円珍さんも関係あるんですか?」
「法要はするけど、あまりないかなぁ。どちらかというと、乃木さんを入れた方が補助が受けやすいということ」
なるほど、大人の事情というわけですか。
そういや、今はアイドルグループ「乃木坂46」がはやりだが、
そもそも東京・乃木坂の地名の由来は、乃木将軍の屋敷があり、彼の殉死を悼み、赤坂区役所が議会で坂の名前を決めたことからとか。
こんな歌もありました。
「ちょっぴり淋しい乃木坂~」
70年代でしょうか。
カラオケで今もちょいちょい聞く「別れても好きな人」の2番の一節。
人気アイドルと殉死をつなぐ思考回路なんてものは、おそらく存在し得ないでしょう。
しかし、乃木将軍と弘法大師にはこんな縁があるそうです。
乃木将軍が練兵場を善通寺近くの一角に建てようとしたところ、
空海が幼少期に遊んだところにつくられた地蔵堂が予定地のなかにあった。
彼はこれを丁重に移設したのですが、空海が夢に出てきて、
「もとに戻しなさい」というものだから、もとの位置に戻した。
これが今の仙遊寺だそうです。
空海からはじまり、円珍あり、乃木将軍あり。アイドルも…。
かめばかむほど、奥が深い四国八十八カ所のお寺。
再び、ガラガラを引き、炎天下の中、無人駅に向かった。
●金倉寺
 善通寺市金蔵寺町字本村1160
 JR土讃線・金蔵寺から徒歩8分
 ☎0877-62-0845

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