金戒光明寺(黒谷さん)(2010年4月)

広島から転勤して、三宮に住んでいる。
港町は魅力的だが、桜のころになると、
寺の瓦に落ちる桜を思い、急に京都が恋しくなる。
友人に会うという名目をつくって、京都に向かった。

平日の金曜昼過ぎとはいえ、桜の季節のJR京都駅は殺人的である。日本全国および世界各国から、この季節めがけて人が集まってくる。バスも満員である。河原町は人でごった返している。まあそれは想定内。

運転が荒いことで有名なバスがタクシーを蹴散らしていく。
だが、それは河原町を過ぎ、平安神宮あたりまで。
そこで、観光客はどっと降りていく。
平安神宮の北あたりに差し掛かると、バスは地元民ばかりになる。
東天王町のバス停は、京都といえども殺風景なガソリンスタンドの角にある。
向かうは浄土宗4大本山の1つ、金戒光明寺。
まず観光客らしき人がいないのがいれしい。
丸太町通りをしばらく西へ。そして、右折。
車がすれ違うこともできないぐらいの路地の奥に大寺がある。

門をくぐると、左手に立派な石垣が連なっている。
二条城より、いわゆる城っぽい。
さすが、幕末は京都所司代に任命された会津藩の陣所となっただけのことはある。
桜の花びらが敷かれた参道にはすれ違う人もまばら。
これもまた京都である。

久々のお寺参りである。ドデカイ山門が現れる。
東大寺の南大門もこんなにデカかったかな?

でも、この石段どっかでみたことあるんだよなぁ…。

すると、スエット姿のレディーが石段を駆け上がっていった。
そうだ!
これはフィラデルフィアでロッキーがリンカーン像に向けて駆け上がっていく、あのシーンやないか!

言うても、そのねえちゃんは、立ち止まって、桜を写メしていたが…。

目からうろこで、本堂にたどり着いたが、警備員らしきおじさんに聞くと、
「さて、3時ぐらいにここは閉められますから」とすでに閉められたあとであった。

確かに、人がいない理由はこういうノーサービスの精神があるからかと納得した。
ただ、それゆえに、信仰のためのお寺なのかと、妙に『黒谷さん』と地元民に呼ばれるこの大寺が気に入った。

それはよい。
ここに来た理由はほかにもあるのだ。
本堂を右手に行くと、墓所がある。その上がったところに三重の塔があるのだ。
円山公園や平安神宮に桜を見に行くなら、俄然こっちの方がいい。
まずは、赤い鳥居の平安神宮に『ざまあみろ』だ。

どうです。この桜並木!

ただ、ねらいはこの三重の塔。

ここの文殊さんは、私のフェイバリト仏師の運慶さんが彫り上げたものとされる。当然秘仏で拝観はできない。
そんなことはどうでもいい。
仏を感じつつ、『南無阿弥陀仏』とお祈りをいたした。

額には『日本三大文殊随一』とある。
拙者は、奈良の安倍文殊(快慶作)と宮津の文殊堂に訪れたことがある。これで三大文殊制覇となったのか?

お寺のHPによると、
 
貞享三年(一六八六)刊の『雍州府誌』には「本朝三文殊の一つなり」とあり、古来より奈良の「安倍の文殊」天橋立の「切戸の文殊」と共に信仰を集めていました。

http://www.kurodani.jp/explain/index.html

とある。

ただ調べてみると、日本では他にも三大文殊はあるらしい。
『随一』なんてするあたりが、
「本当はうちが三大文殊の一つどすえ~」
と誇り高き京都人が訴えているようでほほえましい。

ちなみに、安倍の文殊は、奈良県桜井の安倍文殊院にある。
快慶作の7メートルの大作は迫力満点。
拙者もたびたび訪れるが、何度見てもあきない。
デカイだけでなく、精緻なのである。
そこがデカイだけ(スミマセン)の奈良の大仏より見応えがある。
確か、今は修理のため、文殊さんが獅子から降りているのが、
結構話題になっていた。

切戸の文殊には、偶然天橋立を泳ぐという酔狂な遠泳の大会で行った。といっても、お堂の近くを通ったという感じ。円瓢は、なんかの仕事のついでに立ち寄ったので寺を巡り、そのとき取得したお札がまだ家にあると言うていたが…。
3キロも泳いだ後に、そんな余裕は残されていなかった…。
そして、黒谷さんの文殊と、一応三大文殊さんを制覇したことになった。

余談だが、一般的には金戒光明寺ではなく、山形県の亀岡文殊堂を加えて、日本三大文殊とする向きが多い。ここのウリは、昨年の大河ドラマ『天地人』の直江兼次が関ヶ原の合戦後の1602年に、会津から米沢に主君とともに転封されたとき、漫画でも有名なあの前田慶次らと『亀岡文殊奉納詩歌の会』を開いたお寺だということ。

彼は切ない漢詩を残しているのですが、徳川に楯突いて、領土縮小。
そのうさを家臣団とはらしたことと思われます。

奇しくもこの金戒光明寺も時が流れた幕末に、会津藩が陣所としたのは、前述の通りである。会津藩主の松平容堂は徳川の遠縁であります。
つまり、兼次が豊臣時代に主君・上杉景勝と与えられた会津120万石が、関ヶ原の西軍敗戦で没収され、その無念を亀岡文殊堂で詠んだ。
そして、今は文殊さんが代わりに、京の金戒光明寺の文殊さんと『日本三大文殊』をかけて争っているといえなくもない。

う~ん、こじつけか。
まあ、久々の休日に、ホッと一息ついたとさ。

アフロ頭の五劫阿弥陀さまも花見でござる。

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