箕面縦走遭難の旅(上)

関西人にとり、身近であって、身近でない土地。
その1つであろうことは間違いないのが、そう、箕面という地である。

 

「あぁ、北の方ね」。「あぁ、山ね」。「おぉ、サルがおるところか!」

 

…感覚的にはすぐわかるのだが、滅多なことでは大阪の民でも足を運ばない。
1人なら、取り立てて行く理由はないだろう(住民の方には申し訳ないが…)。
なにせ、有名な滝があって、猿が跋扈する土地である。

 

円瓢が笑いながら語る。

 

「箕面市は、全国的にはいまや箕面ビールと滝の町らしいで。俺らの時代はまず「サル」やったけどなぁ。高校が大阪市内やが、空石含めて市内人からは「箕面から来てんの!?朝起きたらベランダにサルがおるとこやな?」とよう聞かれたわ。「そんなことあるかいな!」と鉄板の突っ込みを返すのがお約束やったそんなある日のことや…。」

 

「うちのオカンが、同じ箕面でも実家よりさらに山のふもと(如意谷-にょいだに-また名前が渋いわ!)に住む友人から聞いた話で、『ほんまに朝起きたらベランダからサルがこっち見て眼ぇ合うらしいで!』やと。…まじかいな、それ!それ以降、俺の反応も通常の突っ込みを伴いつつも「でも実はな…」とこの話を披露して、皆で驚きながらきちんと『落とす』ことができるのや。」

 

仏友よ。どんな他愛無い話にも「落ち」をつけることを必須とする点は超大阪人魂やと思うが、「まじでサルと暮らしてる」ってところは、やはり「大阪のチベット」、俺ら市内人には伺い知れぬ世界やでぇ…。

 

そんな聖なる地、箕面。再訪の機会がお盆に訪れた。

 

小生の仏友が大阪に帰省するので、「では会おう」ということに相成った。
われわれが真っ先に考えるのは、「どこの寺で会うか?」ということである。
けったいな話だが、いつもそうなのだから仕方がない。
いつもは、私もいろいろ調べて候補地を探すのだが、仕事にかまけて適当な寺が思いつかない。そこで…。

 

「おぬしの実家の箕面にある勝尾寺にでも行こか!」

 

こうして、MONK衆夏の陣の幕が切って落とされた。

 

普通に考えると、円瓢の実家、つまりは地元である。特に「地獄」にならん気配が濃厚であった。だが、そこは我々MONK衆の(幸・不幸に関係なく)仏縁を呼び寄せる力が働く。今回も極めて綺麗に「地獄」と相成りました。

 

さて、冒頭で説明したが、心情的に小生にとり、箕面は身近な感じなのである。
ただ、千里中央という駅に出て、そこからバスに乗ると、勝手が違う。

 

「はて、けっこう箕面って遠いな…。」

 

正確に言うと、目指す勝尾寺が遠いのである。
バス停で目にした乗客の多さに目をむいたが、なんのことはない。
彼らはお盆なので、さらに北にある北摂霊園に参るのであろう。

 

西国三十三箇所(観音霊場)の23番札所なので、もしやと思いもしたが、
勝尾寺で降車したのは、小生らを含め、わずか4人であった。
ここにてくだんの仏友、円瓢に加え、円瓢の幼馴染みであるMの坊も参戦した。

 

立派に塗装の成された山門にたどり着いても人の気配は一向にない。
つまりは、貸し切り状態である。
それもまたよし。気を取り直して、ずんずん進む。

 

人はいないのに、なぜか落ち着かない。
そりゃそうさ。
境内のところどころに配されたスピーカーから、ヘビメタ級の般若心経が垂れ流されるからな。
これ、どういう効果をねらってるのかなぁ。

 

昔、インドネシアに学生交流で行った際、
見学した更正施設で日の出とともに耳を覆いたくなるようなコーランが流れてきた。
まさにあれである。コーランではなく般若心経であるという違いだけ。

 

心地よいというより、落ち着かないのだな、これが。
冷静に考えると、寺を訪ねるものは心の平安を得んとす。
われわれは少し違うかもしれぬが…。
さすれば、この大音響の般若心経は逆効果だろうよ。

 

意図はなかったのかもしれない。悪気もないのだろう。
最初は小音だったのが、発案者の耳が月日とともに遠くなり、徐々にボリュームアップ。
ただ悦に入った発案者に、誰も「うるさいです…」とは言えずに今に到るのか。
ならば、声を大にして言いましょうよ、我々MONK衆がね。

 

「あれ、逆効果ですぞ!」

 

仏友は「これぞ『真言宗ジャイアニズム』やでぇ!」といたく喜んでおったが。

 

さて、説明が遅れたが、勝尾寺とは、奈良時代の727年に善仲、善算という双子の僧侶が庵を開いたことに始まる。
その後、光仁天皇の息子・開成皇子が弟子になり、般若心経を書写し、弥勒寺という寺を開基した。
ときは流れて、平安時代、清和源氏の祖・清和天皇が立ち寄り、行巡上人が病を治したことから、
「勝王寺」という名を授けられた。ただ、王に勝つでは恐れ多いと、「勝尾寺」にしたとか。
山寺ゆえ、秋には紅葉でにぎわう高野山真言宗の名刹である。

 

とまあ、いろいろのたもうたが、この寺を言い表すのは、ズバリこれであろう。

 

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そう、ダルマである。それもいたるところに、である!!

 

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こんなとこにも!!分かります?すんげぇ高い石垣に挟まっとんねん!
どうやって詰めたのか…?

 

おそらく「勝」というところから、「勝ちダルマ」となり、
願い事が叶った人がお礼参りに来て、奉納していったことを機に、それが作法となったのであろう。

 

中には風で飛ばされそうなところにも。
どう管理しているんだろうか?

 

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改めて境内を見渡すと、ヘビメタ声明以外はなかななかの風情である。
都心にある平面な寺院と異なり、山寺の石段は起伏に富み、
ときおり姿を見せる石垣の苔むしたところなどは、瑞々しくて心地よい。

 

さあ、本堂に着いた。
これと言って、特筆すべきものはないのだが、ともかく久々の参拝に感謝して頭を垂れる。
振り返ると、お札などが売られている。

 

しかし、メインはやはり「勝ちダルマ」だろうな!
大小さまざまな種類のダルマが置かれている。
最高額は、ゼロが何個だ…20万円なり!
もっとも、これで選挙に当選するなら、高くもないのでしょうな。

 

真言宗のお寺ですが、本堂奥に他宗の霊場がある。
二階堂です。浄土宗を開いた法然上人が4年間いたそうな。
実は本堂より、こちらのお堂の方が渋くて味があるのだ。

 

なんて思ってると、またしても、それを打ち消すように例の般若心経が…。ジャイアニズム!!
ここぐらいは「南無阿弥陀仏」でいいんじゃないのか。

 

再び本堂に戻って逡巡した。我々寺マニアにとっては当然のことなのだが、「物足りない」のだ。

「これにて寺巡りを終わってよいものか…」

奥の院みたいなところはないんだろうか?

→ そういう余計な考えを持つから、やっぱり「地獄」になってしまうのだが…。

 

そこで仏友が提案した。

「ここを開いた開成皇子の墓があったけど、結構歩いたような気がするなぁ」

 

彼が少々弱気なのは、サンダル履きだったので、ちょっと山道は勘弁ということであろう。
それに、もらったパンフレットにも墓の記述は特になく、大した見どころではないのかも…。

 

一応、ダルマ売りのおばさまに聞いてみた。

「そうやね。自分らの足なら40分ぐらいやね」

 

ほうらきた。こういう答えは要注意だぜ、寺仲間の諸君!
なぜなら、100%こういう御仁は実際に行ったことがないのだから。
「自分らの足なら…」などという曖昧な物言いを、物売りの人はしない。
実際に歩いていたなら、「40分で着くよ」と断言してくれるのが常である。

 

そう考えて、結構かかるのかも…と断念しようとしたが、次の言葉で一挙に気が変わった。

 

「宮内庁の人らは革靴で行きはるけどね!」

 

く、く、宮内庁、革靴?
どういうことやねーん?

 

聞けば、王子も大事な皇族ということで、わざわざ役人が参拝に来るらしい。
ということはやで、革靴やし、そこまで大した道ではないのかもな!いつもの仏教体楽観主義が出る。
しかも、宮内庁の人が毎年来る墓所なるものは、ぜひ拝見せねばならん、とも考えた。

 

「いっぺんちょっと行ってみて、あんまきつかったら、途中で戻ってこようや!」

 

私(空石)は2人を説き伏せ、箕面の山道に入っていった。
2人はサンダルであったのだがな。

 

ダルマ売りが躊躇したわけがすぐわかった。
寺の裏に申し訳程度にある奥の院ではなく、本当の山道が続くのだ!
進むにつれ、木々が折り重なり、真夏にかかわらず、薄暗さが増していく。

 

そして、我々は「結界」にぶちあたるのであった。

 

目の前に見たこともない柵が立ちふさがっていたのである!

 

「通行止めやで、これ。しゃあない。帰ろか?」

「ちゃうで。これはただのイノシシよけやで。心配すんな。」

 

…さすがは高校まで箕面の山で、猿とともに育った野生児だけのことはある。
山のことはよく知っているのである。同じ大阪でも町育ちの私と感覚が違うのだ。
要するに、山のイノシシが下界に降りてこないように、結界を作っているのである。
ただし、この文言には少しビビッたけどな。

 

『ツキノワグマ(小熊)に注意』

 

小熊?子熊?…どっちにせよ、それって育てば大人熊やんけ!注意の度合は、変わらんやん!?
なんの意味があるねん、一体…?なんの気休めにもならんわ。

 

やけくそで結界を超えて行く。
これが地獄の入口だとはつゆ知らずに。

 

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いうても8月8日の酷暑の大阪である。
汗は噴き出し、自然と口数も少なくなる。

 

「こ、こんな遠かったかなぁ…?」

 

以前に何度か来たという仏友も、心許ないことを口走りはじめたぞ。
大げさではなく、本当にハードな山道なのである。おまけに彼らはサンダル履きだ!
そりゃ、パンフレットに載せられないわなぁ。

 

だって、60超えたナイスミドルが大挙して、押し寄せたら、数名は途中でSOSになるであろうから。

 

立て看板を見つけると、一瞬の喜びがある。しかし、まだゴールが遠いとすぐに分かり、がっかり。
罵詈雑言をつぶやきながら、歩みを進めるのみだ。

 

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そして30分、いや、感覚としては1時間ほど、歩いただろうか。

ようやく「開成皇子墓所」の表示が!

 

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少し開けた山の平地に、ひっそりと、かつ凜とした墓所があった。
白砂があるのは、宮内庁の配慮なのだろうか。
奥に立派な宝篋印塔(ほうきょういんとう=簡単にいうと真言が入った供養塔)が建つ。
さすが皇室だけのことはあるな。

 

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ところでこの開成皇子っていったい何者やねん?
それ、至極真っ当な質問ですわな。

 

765年、勝尾寺の前身となる弥勒寺の開基であることは、既に説明した。
加えて、平安遷都した桓武天皇の父・光仁天皇の長男とされている。

 

ここでふと考える。
天皇の長男が、こんな山林の庵みたいな寺で生活しないといけない理由は何かと。
当時の時代背景を調べれば、なんとなく事情がわかってくる。

 

766年は道鏡という僧が女帝に取り入り、権力を掌握。法王という位を授かる歴史の転換点だ。
769年には宇佐八幡のご神託として、「道鏡を法皇にという」トンデモなご神託が下ることに。
その裏側で、邪魔になりそうな皇族らは次々と変死をとげているのだ。血塗られた皇族史である。
それを察した光仁天皇(当時は白壁王)は、酒浸りで暗愚を装っていたという。
彼は天智天皇の孫という血筋のよさで、そうでもしないと、真っ先に抹殺されるからなんでしょうな。

 

そこで開成皇子です。
彼はあとの時代では天皇の長子ですが、そのころは隠さねばならない後胤だったわけです。
そのため、仏道修行に出し、それでも危ういと箕面の山奥にかくまった。
41歳で開山というから、ほんとかわいそ過ぎるわぁ。

 

あとは歴史が教えるところ。
道鏡は女帝の死で失脚し、770年になり、めでたく白壁王は即位して、光仁天皇に。
このとき実に61歳!

 

めでたし、めでたし…なんでしょう。普通なら次期天皇の筆頭として、開成皇子は日の目を浴びるはず。
ところがなぜだか、なぜだかそうはならない。
774年に北摂の神峯山寺を開基したとはあります。
だから、北摂をお猿さんとうろうろして、下界には降りてこなかったのね。

 

理由があるんでしょうなあ。
年表の羅列ばかりで申し訳ない。ただ、興味深い話しなので、もう少しだけお付き合いあれ。

 

光仁天皇の后は、あの奈良の大仏をつくった聖武天皇の娘であった井上内親王。
彼女の息子は他戸 (おさべ) 親王になっていた。

 

それが、です。

772年に、皇后が呪いをかけたとして、2人を庶子に落として、大和に幽閉。すぐに2人は亡くなります。

毒殺とも言われる。皇子は15歳という若さだった。

 

黒幕は藤原百川(ももかわ)とされている。
彼は光仁天皇擁立を成功させた御仁でもある。
次になにをしたかというと、百済系の母を持つ山部親王をおして、781年に桓武天皇として即位させた。

 

これですな。
この事情が、開成皇子が下山できないわけです。

 

で、もう一つは歳でしょうな。
結論からいえば、開成皇子は781年に亡くなっている。
御年57歳。

 

こんな方を天皇にすえたら、また次をめぐって権力闘争が始まる。
だからお呼びがかからなかった。
光仁天皇の時は、急を要する深刻な事態というのもあった。

 

それで闇に葬られたのではないか。
正直、開成皇子の母親も実はよくわからないらしい。
ただ、血筋はよかったんだと思う。

 

そして、ここ北摂(大阪北部の山間部で京都との境である能勢、豊能、箕面、茨木、高槻…を指す)には、開成皇子が関係する寺院が多くある。勝尾寺、神峯山寺、大門寺、本山寺など。

 

この一帯は渡来人系が多数住んでいたともされている。
だから、百済系の桓武天皇は奈良を離れ、はじめ長岡京に新天地を求めた。
大和の地は、仏教勢力と結託した魑魅魍魎が跋扈していたのである。
開成皇子は、もともと百済につながる血筋で、アンチ勢力から彼をかくまい、育ててもらうため、北摂に預けられたのではないだろうか。

 

とにもかくにも、桓武帝は旧勢力を排除し、平安京を発展させていくのである。

 

そして、ときは流れ、開成皇子も開山として、宮内庁職員らに手厚く参拝されているのである。

 

ちなみに、正式な参拝の儀は「御正辰祭(ごしょうしんさい)」と呼ばれておりまして、こちらのブログに詳細にレポートが書かれており参考にされたし。

 

 (下に続く)
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